蛮社の獄をわかりやすくーモリソン号事件・渡辺崋山・高野長英


蛮社の獄

 

ばんしゃのごく

江戸時代

 

 

蛮社の獄とは、1839年におきた外国船の打ち払いを批判した蘭学者たちを弾圧した事件です。

「蛮社」とは、南蛮の学問を学ぶ集団を意味する蛮学社中を省略したものです。

このころの日本は蘭学者を中心に西洋への関心が高まり、開国を期待する人たちも現れるようになりました。

しかし、江戸幕府はフェートン号事件をきっかけに異国船打払令を出し、鎖国状態を継続しました。

 

このような中、日本人の漂流民返還と通商交渉のため、アメリカ船・モリソン号が来航します。

これに対し、幕府がモリソン号を打ち払うと聞いた、渡部崋山、高野長英らが所属する尚歯会はこれに反対します。

渡部崋山は蘭学者・画家で『慎機論(しんきろん)』を書き、モリソン号を打ち払うことの愚かさを本にしました。

しかし、三河田原藩の重役でもあった崋山は、結局、これを世に出しませんでした。

高野長英は、ドイツ人医師のシーボルトが開いた医学塾・鳴滝塾(なるたきじゅく)で医学・蘭学を学んだ人物です。

長英は『戊戌夢物語(ぼじゅつゆめものがたり)』を匿名で書きモリソン号事件を批判、この写本が世に出回ることとなります。

 

そして渡部崋山・高野長英らが無人島である小笠原島に渡航し、そこからアメリカに渡ろうとしているとされ、逮捕されます。

これは無実であることが証明されましたが、幕府は容疑を海外渡航から幕府に対する批判をしたことにすり替えます。

崋山は『慎機論』を書いたことも引っ張り出され、処罰されることになりました。

ただ崋山は多くの人たちと交流があったため、崋山の罪を減刑するよう訴える人たちもいました。

このため、崋山は出獄を許され、田原に戻り永蟄居(えいちっきょ・無期限の謹慎のこと)となりました。

 

高野長英は、永牢(えいろう・終身刑のこと)となりますが、脱獄し、全国を逃亡しています。

しかし、のちに江戸で見つかり、殺害されました(そのとき自ら命を絶ったとも言われています)。

渡辺崋山も永蟄居の状況に耐えられなくなり、自殺しています。

 

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プロフィール

管理者:DN

愛知県豊橋市三本木町の某個別指導塾・塾長です。

愛知県田原市生まれ、豊橋市育ち。

文学部史学科卒のため、歴史ネタが多くなります。

主に小中学生に指導もしています。

東三河の方で、教室に興味のある方はこちらのお問い合わせフォームより、お問い合わせください。塾ではない形で指導を希望される方も、一度ご相談ください。あなたから新しい指導の形が見つかるかもしれません。

 

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