毛利輝元とはー中学歴史の教科書 新登場人物1
毛利輝元とはー中学歴史の教科書 新登場人物1
今までの教科書において、関ヶ原の戦いは石田三成対徳川家康でした。
新しい教科書より石田三成に味方した人物として「毛利輝元などの大名」と、毛利輝元はその代表として書かれています。
毛利氏は中国地方を治めていた大名で、その基盤を作ったのが輝元の祖父に当たる毛利元就(もとなり)です。
毛利元就は教科書本文にこそ出てきませんが、有力な戦国大名の紹介ページに顔と名前だけ、昔から登場しています。
矢は1本だと折れるが、3本だと折れない「3本の矢」のエピソードで有名です。
昔、大河ドラマの主人公としても取り扱われたことがあります。
そのうちの1本の矢が毛利輝元の父、毛利隆元になります。隆元は若くして亡くなったため、13歳で実質的な当主になります。
隆元の兄弟、つまり輝元のおじの吉川元春と小早川隆景は輝元を支え、この二人は「両川(りょうせん)」と呼ばれました。
豊臣秀吉時代には、若いながらその家柄から徳川家康と同様に五大老(他に前田利家、上杉景勝など)の一人に選ばれます。
そのことから関ケ原の戦いの石田三成側の総大将は、毛利輝元でした。
では、なぜ毛利輝元対徳川家康ではないかというと、輝元は関ヶ原の戦いの際大阪城にずっといたからです。
つまり、実質戦いには参加していませんでした。
よって総大将とは言いながらこれといって何もしていないことが、今まで教科書に名前があがらなかった理由だと考えられます。
よく毛利輝元の紹介文にも「凡庸な大名」と書かれています。
ゲームなどでも登場しますが、いたって普通の能力の場合が多い印象があります。
ただ実質的に戦いに参加しなかったことから、毛利家は関ヶ原の戦い後も存続することができました。
江戸時代末期には長州藩から吉田松陰、高杉晋作、桂小五郎(木戸孝允)ら、明治維新で活躍した人物を多数輩出しています。
※教科書とは、東京書籍発行の「新しい社会」を指します。
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徳川秀忠がしたことー歴史で中学生が覚えておきたい徳川将軍1
2017年9月5日
社会, 覚えておきたい徳川将軍
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w.sanbongi
徳川秀忠
とくがわひでただ
第2代将軍
1579年~1632年
教科書では、禁教令を強化し、多くのキリスト教徒を処刑した人物として登場します。
華々しい経歴を残した初代徳川家康、第3代徳川家光に挟まれ若干地味な存在ではあります。
徳川秀忠は徳川家康の三男で、家康の長男は切腹、次男は豊臣秀吉の養子になりました。
よって三男の秀忠が徳川家を継ぐことになります。
秀忠は、秀吉全盛のころに元服しているため、秀忠の「秀」は秀吉の「秀」です。
第3代徳川家光以降徳川将軍家からの将軍は、家康の「家」を名前にしている将軍が多いです。
関ヶ原の戦いの際には、上田城にて真田昌幸・幸村親子に足止めされた上に、雨により軍が思うように進みませんでした。
その結果、関ヶ原の戦いの決戦時に間に合わず、徳川家康からひどく怒られています。
家康は江戸幕府ができてわずか2年で、秀忠に将軍を譲ります。
このことは、将軍が世襲制(せしゅうせい)であることを世に知らしめたとも言えます。
その後も家康が大御所(おおごしょ)として、実質的には、実権を握っていました。
秀忠は家康とともに、武家諸法度・禁中並公家諸法度などの制定を行っています。
家康死後は自分の側近を政治の中心に置き、反対派を粛清(しゅくせい)、やっと将軍として存在感を表します。
大名統制を強化、とくに福島正則(ふくしままさのり)を広島城無断修繕を理由に、改易したことが知られています。
また鎖国政策として、外国船の来航・貿易地を長崎・平戸に限定しました。
弟3人を尾張、紀伊、水戸に置き、徳川御三家(とくがわごさんけ)とし、徳川将軍家に次ぐ地位を与えました。
隠居して将軍を徳川家光に譲った後も、家康同様、実権を握り続け、54歳で亡くなりました。
妻の江(ごう)は2011年の大河ドラマの主人公で、徳川秀忠のこともこのドラマで多く描かれています。
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