カテゴリー: 教科書に出てくる『西郷どん』の登場人物
徳川斉昭とはー一橋慶喜の父・御三家・攘夷論
徳川斉昭
とくがわなりあき
1800年~1860年
演:伊武雅刀
徳川斉昭は、水戸藩の藩主で、江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜(一橋慶喜)の父です。
水戸藩は、親藩の最高位である御三家(他は尾張・紀伊)のひとつで、初代藩主は徳川家康の子、徳川頼房(よりふさ)です。
2代目は、水戸黄門で有名な徳川光圀(みつくに)で、『大日本史』を編纂しました。
このことにより、水戸では尊王の思想が強く、その学風は水戸学と言われます。
徳川斉昭は尊王論から攘夷論を展開し、幕末、尊王攘夷論の先頭に立って活躍しています。
徳川斉昭は、第8代藩主の兄・徳川斉脩(なりのぶ)の死後、第9代藩主として、あとを継ぎました。
藩主としては、藤田東湖(とうこ)や会沢安(あいざわやすし・会沢正志斎とも)らを見出して、藩政改革を行っています。
学問の教育・研究の場として、弘道館(こうどうかん)という藩校を設立しています。
西洋の近代兵器を日本でも作ることに積極的で、のちに大砲や西洋式の軍艦を幕府に献上したりもしています。
また仏教を弾圧し、神道を重視、このことをとがめられ、隠居させられています。
その後、黒船が来航、そのときの老中首座・阿部正弘のもと、幕政にも参加しました。
ここでも尊王攘夷論を主張、開国を主張する彦根藩主の井伊直弼と対立しました。
第13代将軍・徳川家定の将軍継嗣問題では、自分の子である一橋慶喜を推し、一橋派の中心になりました。
しかし、井伊直弼が大老となり、日米修好通商条約を結び、徳川慶福(家茂)を第14代将軍としました。
このことを松平慶永らとともに直弼に詰め寄りますが、逆に謹慎させられ(安政の大獄)、そのまま水戸で亡くなりました。
その後、水戸藩は一部の過激な藩士が井伊直弼を暗殺します(桜田門外の変)。
さらに過激派が天狗党(てんぐとう)を名乗り、挙兵する事件も起こしています(天狗党の乱)。
徳川斉昭の死後、このような事件によって水戸藩は幕末の中心から遠ざかっていきました。
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松平慶永とはー松平春嶽・政事総裁職・幕末の四賢侯
2018年5月4日
教科書に出てくる『西郷どん』の登場人物
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w.sanbongi
松平慶永
まつだいらよしなが
1828年~1890年
演:津田寛治
松平慶永は、越前福井藩の藩主で、松平春嶽(しゅんがく)の名前でよく知られています。
薩摩藩主・島津斉彬、土佐藩主・山内豊信(容堂)、宇和島藩主・伊達宗城とともに幕末の四賢侯と呼ばれています。
越前福井藩は、親藩で、徳川家康の次男で、第2代将軍・徳川秀忠の兄・結城(松平)秀康が初代藩主となります。
結城秀康(ゆうきひでやす)は、もともと徳川家康(当時は松平家康)のあとを継ぐ位置にいました。
しかし、家康と豊臣秀吉が戦った小牧・長久手の戦いの後、秀吉の養子となったため、後継者から外れました。
その後、秀吉に実子ができた際、再度養子に出され、結城秀康となりました。
そして関ヶ原の戦いの後、越前に領地を与えられ、元の名字の松平に戻しました。
松平慶永はもともとは御三家の次の三家である、御三卿(ごさんきょう)のひとつ田安家(たやすけ)の出身です。
越前福井藩の藩主が亡くなり、後継ぎもいなかったことから養子として入り、藩主となりました。
藩主としては、橋本左内(はしもとさない)や由利公正(ゆりきみまさ)らとともに、幕政改革を行っています。
由利公正は、のちに五箇条の御誓文の原案を考えた人物として、知られています。
第13代将軍・徳川家定の将軍継嗣問題では、徳川斉昭や島津斉彬とともに一橋慶喜を推します(一橋派)。
しかしこれに敗れ、さらに勝手に日米修好通商条約を結んだ大老・井伊直弼に抗議、逆に謹慎させられました(安政の大獄)。
井伊直弼が桜田門外の変で暗殺された後、政界に復帰し、文久の改革の中心人物のひとりとなっています。
このとき新しく設置された3つの要職のひとつ、政事総裁職についています。
しかし、3つの要職のひとつ・将軍後見職についた一橋慶喜と対立し、一度越前福井に帰っています。
その後、再度復帰し、土佐藩が建白した大政奉還を支持しています。
維新後は、新しくできた三職のひとつ議定(ぎじょう)に選ばれています。その後も重職を歴任し、61歳で亡くなりました。
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