カテゴリー: いろいろな現代の歴史
コント55号とはーお笑いの歴史

コント55号
萩本欽一
坂上二郎
お笑い第一世代
コント55号はザ・ドリフターズとともに、テレビのお笑いを作ったとされるコントコンビです。
後に、お笑い第一世代の代表格ともされています。
愛称は萩本欽一が欽ちゃんで、坂上二郎が二郎さん。坂上二郎のほうが7歳年上です。
今では数多くのタレントを抱える芸能事務所「浅井企画」は、もともとこの2人から始まった会社です。
(関根勤、小堺一機、キャイ~ン、ずん、流れ星、どぶろっく、関根麻里、ANZEN漫才などが所属)。
お笑い芸人として、テレビで数多くの冠番組を持つようになります。
(『コント55号の世界は笑う!』『コント55号!裏番組をブッ飛ばせ!!』『コント55号のなんでそうなるの?』など)。
芸能界における、お笑い芸人の地位を向上させたコンビといわれています。
もともとは、それぞれ一人で活動していました。
一度コントを舞台で一緒に行うことになります。それがきっかけでコント55号が結成されました。
フジテレビの『お昼のゴールデンショー』で人気者になります。
欽ちゃんは「なんでそうなるの!」、二郎さんは「飛びます!飛びます!」のギャグがはやりました。
また、「野球拳」が一世を風靡しますが、そのころからコントをする機会は少なくなりました。
またPTAなどからも非難を浴び、人気も下降、徐々に個々での活動が増えていきました。ただし解散はしていません。
その後も記念番組などでたびたびコントを演じましたが、2011年に坂上二郎が亡くなったことで、コンビは終了します。
コントのパターンは、非常識人の欽ちゃんのツッコミに対して、常識人の二郎さんがアドリブで返すというパターンです。
動きが非常に激しいことが、特徴です。当時はそれにカメラが追い付かなかったと言われています。
台本はあったようですが、アドリブコントなので、当時「二度と同じコントを演じない」コンビと評されています。
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萩本欽一とはーお笑いの歴史
2017年12月17日
お笑いの歴史, いろいろな現代の歴史
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w.sanbongi
萩本欽一
はぎもときんいち
1941年5月7日生まれ
お笑い第一世代
萩本欽一は、最初コント55号として人気者になります。
しかし徐々に個々での活動が増えていきました。
相方の坂上二郎がお笑いから距離を置いたのに対し、欽ちゃんはその後もお笑い界の第一線で活躍し続けます。
よってお笑い第一世代の代表格はコント55号ではなく、萩本欽一とするものも多いです。
『欽ちゃんのドンとやってみよう!』(通称『欽ドン!』)、『欽ちゃんのどこまでやるの!?』などで大人気になります。
各番組の視聴率を足して「視聴率100%男」と言われました。
土曜8時の『欽ドン!』はドリフターズの『8時だョ!全員集合』とともに、当時のお笑い界の2強時代を象徴する番組でした。
またフジテレビの土曜8時は『ひょうきん族』『ウンナンのやるやら』『めちゃ²イケ』と続き、その基盤をつくりました。
素人や芸人でない人をいじるお笑いや、「ウケる」「天然ボケ」などの言葉を世に広めました。
このとき活躍した小堺一機、関根勤などは「欽ちゃんファミリー」と言われました。
イモ欽トリオの『ハイスクールララバイ』、わらべの『めだかの兄妹』『もしも明日が…』をヒットさせています。
このように番組内で曲を作り、歌手ではない人に歌わせヒットさせたのも欽ちゃんが最初と言われています。
24時間テレビでは第1回~第3回まで総合司会を、2007年にはチャリティーランナーもつとめています。
1985年に当時のレギュラー番組をすべて降板し、半年間休養しました。
しかし、復帰後視聴率が上がらなくなります。
そして後にお笑いBIG3といわれるタモリ、ビートたけし、明石家さんまなどの登場により出番が減っていきます。
その後は、社会人野球チーム「茨城ゴールデンゴールズ」を結成し、人気が低下していた野球界を盛り上げました。
2015年には、駒澤大学仏教学部に入学したことで、話題になりました。
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