壬申の乱
じんしんのらん
671年
飛鳥時代
教科書には、天智天皇の没後、天武天皇が大友皇子とあとつぎをめぐった戦いとあります。
壬申の乱の主人公・天武天皇はそのときは大海人皇子といい、天智天皇の弟として、その政治を支えてきました。
もう一人の主人公・大友皇子は、天智天皇の皇子で、のちに弘文天皇という名を贈られています。
壬申の乱の名称は、十干十二支(干支・えと)からきており、壬申とは「みずのえさる」になります。
天智天皇(元・中大兄皇子)の次の天皇は、当初、弟である大海人皇子でした。
しかし、天智天皇は息子である大友皇子を太政大臣とし、大海人皇子の仕事を奪い、大海人皇子は立場を追われました。
このことが壬申の乱につながっていきますが、なぜ天智天皇がこのようなことをしたのかはわかっていません。
単に自分の子供を後継ぎにしたくなったと考えるのが、一番妥当かもしれません。
一方、大海人皇子は天智天皇の政治方針をよく思っておらず、その対立がこのような状況を生んだとも考えられています。
天智天皇によばれた大海人皇子は、大友皇子が皇太子になることをすすめ、自らは出家を申し出て、吉野に移りました。
その後、天智天皇が亡くなると、大海人皇子は挙兵し、東国から兵を集め、大友皇子がいた近江を攻めました。
このとき大海人皇子は、多くの味方をつけています。
これは天智天皇の白村江の戦いの大敗に対する対策に反対していた派閥が存在し、この派閥が味方したとも言われています。
また大友皇子は身分の低い側室の子でした。
それに対し、天智天皇と同じ父母を持つ大海人皇子の方が、皇室の血筋として評価が高かったとも言われています。
当初、大海人皇子側が苦戦する場面もありましたが、それ以後は大海人皇子側が勝ち続けます。
そして瀬田橋の戦いでの大海人皇子側の大勝により、大友皇子は自害、のちに壬申の乱と呼ばれる戦いは収束しました。
なお、日本史で反乱によって皇位が変わったのは、この壬申の乱が最後になります。
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壬申の乱をわかりやすくー大海人皇子VS大友皇子
2018年8月6日
歴史で知っておきたい戦争
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w.sanbongi
壬申の乱
じんしんのらん
671年
飛鳥時代
教科書には、天智天皇の没後、天武天皇が大友皇子とあとつぎをめぐった戦いとあります。
壬申の乱の主人公・天武天皇はそのときは大海人皇子といい、天智天皇の弟として、その政治を支えてきました。
もう一人の主人公・大友皇子は、天智天皇の皇子で、のちに弘文天皇という名を贈られています。
壬申の乱の名称は、十干十二支(干支・えと)からきており、壬申とは「みずのえさる」になります。
天智天皇(元・中大兄皇子)の次の天皇は、当初、弟である大海人皇子でした。
しかし、天智天皇は息子である大友皇子を太政大臣とし、大海人皇子の仕事を奪い、大海人皇子は立場を追われました。
このことが壬申の乱につながっていきますが、なぜ天智天皇がこのようなことをしたのかはわかっていません。
単に自分の子供を後継ぎにしたくなったと考えるのが、一番妥当かもしれません。
一方、大海人皇子は天智天皇の政治方針をよく思っておらず、その対立がこのような状況を生んだとも考えられています。
天智天皇によばれた大海人皇子は、大友皇子が皇太子になることをすすめ、自らは出家を申し出て、吉野に移りました。
その後、天智天皇が亡くなると、大海人皇子は挙兵し、東国から兵を集め、大友皇子がいた近江を攻めました。
このとき大海人皇子は、多くの味方をつけています。
これは天智天皇の白村江の戦いの大敗に対する対策に反対していた派閥が存在し、この派閥が味方したとも言われています。
また大友皇子は身分の低い側室の子でした。
それに対し、天智天皇と同じ父母を持つ大海人皇子の方が、皇室の血筋として評価が高かったとも言われています。
当初、大海人皇子側が苦戦する場面もありましたが、それ以後は大海人皇子側が勝ち続けます。
そして瀬田橋の戦いでの大海人皇子側の大勝により、大友皇子は自害、のちに壬申の乱と呼ばれる戦いは収束しました。
なお、日本史で反乱によって皇位が変わったのは、この壬申の乱が最後になります。
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