カテゴリー: 覚えておきたい天皇・上皇
天武天皇とはー中学生が覚えておきたい天皇・上皇3
天武天皇
てんむてんのう
?年~686年
大海人皇子
教科書では、壬申の乱に勝って天皇となり、天皇の地位を高めた人物として紹介されています。
天武天皇は大海人皇子(おおあまのおうじ)といい、天智天皇(中大兄皇子)の弟です。
ただし、生年月日がわかっていないことや、天武天皇の方が年上という書物も存在するため、兄弟関係を疑う意見もあります。
新羅の皇族だった(つまりは日本人ではない)という意見もあります。
天智天皇は当初、弟である大海人皇子を次の天皇にと考えていました。
しかし、子どもの大友皇子(おおとものおうじ)が成長するにしたがって、考えが変わってきます。
そして、天智天皇が大友皇子を次期天皇にしたことで、兄弟の仲は悪くなりました。
そのような状況下で、天智天皇が亡くなりました。
こうして、大友皇子と大海人皇子が後継ぎをめぐって争い、壬申の乱(じんしんのらん)がおこります。
結果は、大海人皇子が地方の豪族などの協力を得て圧勝し、天武天皇になります。
大友皇子は敗れて自害、後に弘文天皇(こうぶんてんのう)と名づけられます。
しかし大友皇子は、実際には天皇としては即位していないと言われています。
天武天皇は八色の姓(やくさのかばね、はっしきのせい)と言われる、天皇中心の身分制度を作ました。
その身分制度は、8階の身分を作り、皇室と関係の深い人物を上位に置きました。
飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)という律令を編集、大宝律令(たいほうりつりょう)の制定まで施行されました。
この飛鳥浄御原令において、大王に代わり、道教の神、天皇大帝に由来する天皇号が採用されたと考えられています。
天武天皇は他にも、『古事記』『日本書紀』の編纂などもしています。
これらの事業は、ほとんどは完成を見ずに亡くなってしまったため、皇后が持統天皇となり引き継いでいくことになります。
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天智天皇とはー中学生が覚えておきたい天皇・上皇2
2017年10月18日
社会, 覚えておきたい天皇・上皇
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w.sanbongi
天智天皇
てんじてんのう
626年~671年
中大兄皇子
天智天皇は、教科書では中大兄皇子として、大化の改新と呼ばれる改革を行った人物として紹介されています。
また、天智天皇として、唐や新羅からの攻撃に備え、初めて全国の戸籍を作ったと記述されています。
聖徳太子、推古天皇が亡くなると、蘇我馬子の息子の蘇我蝦夷、孫の蘇我入鹿はその時の天皇以上の力を持つようになります。
その舒明天皇(じょめい)の真ん中(2番目)の大兄(長男)の皇子が中大兄皇子でした。
そのとき蘇我蝦夷(えみし)・蘇我馬子(うまこ)に対して不満を抱いていた中臣鎌足とともに、蘇我氏を倒します。
その後も中大兄皇子の中臣鎌足(なかとみのかまたり)に対する信頼は厚いものでした。
そして最も高い位といっしょに「藤原(ふじわら)」という姓を与えました。
これが後に出てくる藤原氏につながっていきます。
このとき教科書にいっしょに出てくる言葉に日本が唐・新羅の連合軍と戦った「白村江の戦い」があります。
教科書ではわかりにくいですが、この戦いで日本軍を率いたのも中大兄皇子です。
もとは母である斉明天皇(さいめい)が軍を率いていましたが、途中で亡くなったため、中大兄皇子が軍を率いました。
天智天皇が作った戸籍は、庚午年籍(こうごねんじゃく)といいます。ただし、現存していません。
中大兄皇子から天智天皇に即位する際、近江大津宮(おうみのおおつのみや)に遷都しています。
約20年以上に渡って、中大兄皇子として活躍しました。
しかし、天智天皇としては実は短く、即位後8年で亡くなっています。
その他として天智天皇は百人一首の最初の歌人としても、登場します。
弟である大海人皇子が天武天皇に即位して、しばらく天武天皇の血筋が続きます。
それも奈良時代の終わりに途絶えたため、それ以降の天皇は天智天皇の血筋になり、その血筋は今の天皇まで続いています。
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