太政官とはー歴史で中学生が太字ではないけど知っておきたい語句


太政官

太政官

 

だいじょうかん

奈良時代

 

 

太政官とは、律令国家(りつりょうこっか)の中央に置かれた2官の1つです。

もう1つは、神祇官(じんぎかん)です。

古代は祭祀が重要視されていたため、神祇官と並ぶ機関ですが、実質は太政官が当時の最高国家機関でした。

 

当初は、太政大臣、左右大臣、大納言で構成されていましたが、後に中納言や参議も追加されています。

最高責任者は太政大臣ですが、常にいたわけではなく、実質的には何の権限も持っていなかったと言われています。

特例はありましたが、正規に初めて太政大臣になったのは、藤原良房で、後に実質的な摂政にもなっています。

その後、摂政、関白についた人物が太政大臣となり、摂関と太政大臣はセットのようなものになりました。

その後分離がはかられ、摂関家でない人物が任命されることもありました。平清盛は武家で初めて太政大臣になっています。

 

その下は左大臣で、太政大臣が常にいるわけではないので、事実上、左大臣が最高責任者でした。

藤原道長、頼通親子も共に太政大臣にまでなっていますが、左大臣である期間の方が長いものでした。

右大臣は左大臣を補佐する役割でナンバー2の存在です。

ただ左大臣がいないときもあり、そのときは最高位になります。

その下は大納言で、大臣と共に天皇の近くにいて、庶政を議し、天皇の宣下や奏上にあたりました。

当初は4人でしたが、後に2人になり、その代わりに大納言の次の位として、中納言が設置されました。

その後はその時によって定員数は異なります。さらにその下には、参議が置かれました。

 

室町時代になると、単に格式を表すだけの役職名になり、江戸時代には禁中並公家諸法度により、幕府の管理下になります。

江戸時代で太政大臣になったのは、初代徳川家康、第2代徳川秀忠、第11代徳川家斉の3人のみです。

明治維新後も形を変えながら存在しましたが、1885年の内閣制度発足により、廃止されました。

 

 

※教科書とは、東京書籍発行の「新しい社会」を指します。

 

 

奈良時代-歴史で中学生が太字ではないけど知っておきたい語句

 

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プロフィール

管理者:DN

愛知県豊橋市三本木町の某個別指導塾・塾長です。

愛知県田原市生まれ、豊橋市育ち。

文学部史学科卒のため、歴史ネタが多くなります。

主に小中学生に指導もしています。

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