大坂夏の陣をわかりやすくー江戸幕府VS豊臣軍


大坂夏の陣

 

おおさかなつのじん

江戸時代

1615年

 

大坂夏の陣は豊臣家が滅んだ戦いで、大坂冬の陣とともに大坂の陣(役)と呼ばれています。

豊臣軍の浪人たちに不穏な動きがあったため、幕府は豊臣家に浪人の解雇か、豊臣家の支配地の変更を要求しました。

しかし豊臣家はこれを拒否、徳川家康は再度大坂を攻めるよう、命じます。

豊臣軍は、大阪城をすでに去っていたものもいたため、数は約8万人に減少していました。

そして大阪冬の陣の和議により、堀は埋められていたため、豊臣軍は大阪城を出て戦わざるを得ない状況でした。

 

道明寺の戦いで後藤基次(又兵衛)・毛利勝永・真田信繁(幸村)らが幕府軍を迎え撃ちます。

しかし後藤軍は単独で幕府軍と戦うこととなり、後藤基次は大軍相手に善戦しますが、この戦いで討ち死にしました。

そして豊臣軍は天王寺・岡山の戦いで最後の決戦に挑みます。

毛利勝永・真田信繁(幸村)の活躍で、徳川家康は本陣を突撃されます。

毛利軍・真田軍は家康を追い詰めるところまでせまったとまで言われていますが、真田信繁はこの戦いで死亡しています。

豊臣軍は豊臣秀頼自らが出馬することにより、軍の士気を高めようとしますが、すでに豊臣軍は撃退されていました。

 

徳川軍は堀の埋められた大阪城にぞくぞくと入っていきました。

大阪城は裏切り者などにより、火をつけられ落城、豊臣秀頼は母・淀君(よどぎみ)とともに自害しました。

秀頼には子がいましたが、男の子は捕まり処刑、女の子は尼になることで許されています。

五人衆の毛利勝永は秀頼を介錯後自害、長宗我部盛親はのちに捕らえられ処刑、明石全登の消息はわかっていません。

 

のちに江戸幕府は大阪城に跡地に新たな大阪城を造り、西国支配の拠点のひとつとしています。

よって今の大阪城は豊臣家のものではなく、徳川家の作ったものとなります。

この戦いの終了で、戦国以来の戦乱が終わり、平和が訪れました。これを元和偃武(げんなえんぶ)といいます。

 

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プロフィール

管理者:DN

愛知県豊橋市三本木町の某個別指導塾・塾長です。

愛知県田原市生まれ、豊橋市育ち。

文学部史学科卒のため、歴史ネタが多くなります。

主に小中学生に指導もしています。

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