老中をわかりやすくー常任の幕府最高職


老中

老中

 

ろうじゅう

江戸時代

教科書では、江戸幕府の役職として紹介されています。

 

老中は、江戸幕府の政務総括をする役職で、つまり幕府最高の職になります。

そのうえに大老の職がありますが、大老は非常時のみの設置だったため、通常は老中が将軍に次ぐナンバー2の役職でした。

4~5名で構成され、基本的には譜代大名から選ばれることになっていました。また江戸時代初めは、年寄と言われていました。

 

老中で有名な人物というと、まず2代将軍・徳川秀忠時代の本多正信・正純親子です。

2人とも初代・徳川家康の側近で、家康の決めたことの多くは本多正信が献策したものとも考えられています。

家康が隠居した後も、正信は秀忠のもとで政治の中心として、活躍しました。

家康・秀忠死後は、本多正純が大きな力を持ちますが、そのことで次第に秀忠や秀忠の側近に恨まれるようになりました。

そしてのちに老中・大老となる土井利勝らのはかりごとにより、流罪となりました。

 

江戸中期になると、政治改革を行った人物として、中学の教科書にも老中が登場します。

10代将軍・徳川家治は、小姓であった田沼意次を登用、田沼は大出世し、老中にまでなりました。

田沼は初めて、側用人から中老になった人物で、その時代は田沼時代とも言われました。

寛政の改革を行った松平定信も役職は、老中です。

定信は、8代将軍・徳川吉宗の孫にあたり、11代将軍・徳川家斉の時代に老中首座となりました。

次の天保の改革を行った水野忠邦も、老中首座です。ちなみに忠邦は2回、老中になっています。

 

幕末では、中学では出てきませんが、高校の教科書に出てくる人物として、阿部正弘がいます。

阿部正弘は、米・英・露・蘭と和親条約を結び、安政の改革を行った人物です。

次に老中首座となった堀田正睦(まさよし)も、高校では覚えておかなければいけない人物です。

堀田正陸は、ハリス日米修好通商条約を協議し、朝廷に条約調印を認めてもらおうとした(京都工作)が失敗した人物です。

 

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プロフィール

管理者:DN

愛知県豊橋市三本木町の某個別指導塾・塾長です。

愛知県田原市生まれ、豊橋市育ち。

文学部史学科卒のため、歴史ネタが多くなります。

主に小中学生に指導もしています。

東三河の方で、教室に興味のある方はこちらのお問い合わせフォームより、お問い合わせください。塾ではない形で指導を希望される方も、一度ご相談ください。あなたから新しい指導の形が見つかるかもしれません。

 

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