足尾銅山鉱毒事件をわかりやすくー渡良瀬川・田中昭造・天皇直訴


足尾銅山

足尾銅山鉱毒事件

 

1900年ごろ

教科書本文では、公害問題の一例として出てきます。

別ページに、1ページにわたって解説があります。

 

足尾銅山鉱毒事件は、当時社会問題になった事件で、日本の公害問題の原点とされています。

日本の銅山は、江戸時代にはよく採れましたが、幕末には採りつくして、生産量は減少していました。

しかし、ヨーロッパの新技術で再開発され生産量は増加、そのとき日本最大の鉱山になったのが足尾銅山です。

 

ただこのことにより足尾銅山からは鉱毒(高濃度の硫酸)が流れ、近くにある渡良瀬川(わたらせがわ)の水を汚染させました。

銅を精錬する際に出る亜硫酸ガスにより、銅山周辺の山林はかれました。

そして洪水や土砂災害により、汚染された川の水が流れ、アユの大量死や稲が枯れるという事例が発見されました。

この原因を足尾銅山によるものと新聞が報道し、社会問題へと発展していきました。

 

これに対し反対運動が起こりますが、その中心となったのが栃木県の衆議院議員の田中正造(たなかしょうぞう)です。

政府は対策として鉱毒予防条例を出し、鉱毒調査会を設置、鉱毒の流出を防ぐ工事を命令しますが、うまくいきませんでした。

被害を受けた住民は、政府に直接訴える反対運動をおこし、警察と衝突するという事件も起きています(川俣事件)。

 

そのような中、田中正造は議員を辞職し、明治天皇に直接訴えようとしますが、これは警官に取り押さえられ、失敗しています。

しかしこの田中正造による天皇直訴により、足尾銅山鉱毒事件は東京でも知られることとなり、世論も盛り上がります。

政府はこの状況を無視できず、さらなる防止対策に取り組みました。

そして渡良瀬川近くの谷中村(やなかむら)を廃村にし、遊水池をつくることで、一応の決着となりました。

足尾銅山は現在は国の史跡となり、かれた山には植林作業が行われ、緑がよみがえっています。

田中正造は、鉱毒反対運動に全財産を使い、亡くなった際には、まったくお金を持っていなかったと言われています。

 

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プロフィール

管理者:DN

愛知県豊橋市三本木町の某個別指導塾・塾長です。

愛知県田原市生まれ、豊橋市育ち。

文学部史学科卒のため、歴史ネタが多くなります。

主に小中学生に指導もしています。

東三河の方で、教室に興味のある方はこちらのお問い合わせフォームより、お問い合わせください。塾ではない形で指導を希望される方も、一度ご相談ください。あなたから新しい指導の形が見つかるかもしれません。

 

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