カテゴリー: 知っておきたい歴史事件
盧溝橋事件をわかりやすくー日中戦争のきっかけ
盧溝橋事件
1937年7月7日
教科書では、日中戦争の
きっかけの事件として紹介されています。
盧溝橋事件は、北京郊外にある盧溝橋(ろこうきょう)で、日本軍と中国軍が衝突した事件です。
このとき志那駐屯軍と呼ばれていた中国北部に駐屯していた日本軍は、夜間練習を行っていました。
そして近くにいた中国兵が、日本軍に向かって発砲します。
日本は中国に対し撤退するよう交渉しましたが、交渉中に再び攻撃してきました。
これに日本軍も応戦し、日本・中国ともに死傷者を出しました。
その後も交渉を続けましたが、中国軍は撤退せず、再び衝突し、死傷者を出しています。
なお、最初の発砲はだれが、どんな理由でしたかはわかっていません。
中国側が誤って撃ってしまった、もしくは中国共産党による計画的なものともいわれています。
柳条湖事件のように、日本軍が自ら行ったという意見まであります。
また盧溝橋事件は、発生から4日後に一応の解決をしていることから、日中戦争のきっかけではないという考えもあります。
このときの首相・近衛文麿(このえふみまろ)の近衛内閣は、この事態に対して不拡大方針をとりました。
しかし、軍部の圧力もあり、戦争は拡大していきました。このとき宣戦布告はしなかったため、当初は北支事変と呼ばれました。
その後、上海陸戦隊の大山勇夫中尉が射殺される事件をきっかけに、上海まで拡大、これ以降は志那事変と呼ばれました。
最終的には、全面戦争になり、第2次世界大戦終結による日本の降伏までを日中戦争と呼びます。
盧溝橋事件についてインターネットで調べると、「盧溝橋事件 トイレ」と出てくることがあります。
これは最初の発砲の際、日本兵が1人行方不明になり、これを日本軍は中国の捕虜にされたと思いました。
しかし実際はトイレに行っていただけであり、約20分後、この兵士は発見されています。
つまり盧溝橋事件の原因は発砲ではなく、トイレに行ったことによる行方不明が原因とするものです。
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南京事件をわかりやすく
2018年7月9日
知っておきたい歴史事件
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w.sanbongi
南京事件
1937年
教科書では、南京を占領する過程で、
一般人や捕虜をふくむ多数の中国人が殺害された事件とあります。
南京事件は、教科書にも書いてありますが、南京大虐殺とも呼ばれています。ただ被害者の数については、確定していません。
南京は当時の中国の首都で、過去には三国時代の呉が、建業という名で首都にしたり、明も首都にしています。
南京事件は、盧溝橋事件に端を発した日中戦争の中で起きた事件です。その戦場は上海から南京へと広がりを見せていました。
上海の戦い(第二次上海事変)では、日本軍は苦戦し、多くの死者を出しました。
このことによって日本軍が中国軍に対して感情的になり、南京事件につながったとも言われています。
その後、南京を包囲、日本軍は開城を要求しますが、中国側はこれを拒否したため、これを落としました。
このとき、南京の一般市民に対する暴力などがあったとされていますが、その数は調査によってかなり違います。
最も殺害が多かったのが、中国兵に対するものです。
ただこれが戦闘中におこったことなのか、戦闘後におこったことなのかで意見が分かれます。
そもそも戦争における兵を殺害することに対する意見も、さまざまです。
また、戦争にもスポーツのように、ルールが条約などで決められています。
しかし日中戦争は当時は、北支事変、志那事変などと呼ばれ、戦争という位置付けではありませんでした。
このことが捕虜に対する扱いがあいまいになったりなどし、南京事件につながったという考えもあります。
第二次世界大戦後、南京事件を行ったとされる部隊の司令官は裁判にかけられ、多くは死刑になっています。
南京事件を命じたとされる人たちも、東京裁判によって処刑されました。
なお現在、日本政府は南京事件があったことは否定できないが被害者の数は諸説あり、認定することは困難であるとしています。
当時の中国のリーダーであった蔣介石が南京事件に全く触れていなかったことから、南京事件を否定する意見もあります。
また証拠写真がいくつかありますが、これらはねつ造であったと分析する意見もあります。
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