長篠の戦いをわかりやすくー織田信長・徳川家康VS武田勝頼


長篠の戦い

長篠の戦い

 

ながしののたたかい

安土桃山時代

1575年

 

教科書では、織田信長が鉄砲を有効に使い、甲斐の大名・武田勝頼を破った戦いと紹介されています。

 

足利義昭織田信長に擁護され、室町幕府15代将軍となりますが、その後この2人の関係は徐々に悪化していきます。

義昭は信長打倒を図り、当時大勢力を築いていた甲斐の大名・武田信玄がこれに応じ、京を目指します。

しかし信玄はその途中で死去、結果、義昭は信長により京より追放され、室町幕府は滅亡しました。

武田氏は信玄の子・武田勝頼がその後を継ぎ、信長と同盟を組んでいた徳川家康の領地・三河へ侵攻します。

そして長篠・設楽原において援軍に来た信長と家康の連合軍と、勝頼との戦いとなりました。これが長篠の戦いです。

 

武田氏といえば、戦国最強といわれた騎馬隊が有名で、長篠の戦いはこの騎馬隊が大敗した戦いとして知られています。

しかしこの騎馬隊は、近年では存在しなかったのではないかという意見もあります。

というより武田氏にかかわらず、日本において騎馬隊というものは存在しなかったとも、言われています。

そしてこの騎馬隊をやぶったのが足軽鉄砲隊の三段撃ちですが、これも実際にはなかったのではないかとも言われています。

これらは『信長記』という当時の小説に書かれたもので、あくまで小説で描かれたことと認識されています。

当時の史料としてある程度信頼のおける『信長公記』には、これらの記述はありません。

ただ鉄砲が織田・徳川連合軍で多く用いられたのは事実で、このことが織田・徳川連合軍を勝利に導きました。

 

武田氏はこの戦いで、信玄以来の多くの有力武将を失い、その後の勝頼の死により武田氏は滅亡しました。

一方、織田・徳川連合軍も柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉前田利家、本多忠勝、榊原康政などが参戦しています。

しかしほとんど死者は出ず、信長、家康をはじめ、これら活躍した人物が戦国時代の中心となっていきます。

また、この合戦の様子は『長篠合戦図屏風』で見ることができ、教科書でも必ずといっていいほど掲載されています。

 

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プロフィール

管理者:DN

愛知県豊橋市三本木町の某個別指導塾・塾長です。

愛知県田原市生まれ、豊橋市育ち。

文学部史学科卒のため、歴史ネタが多くなります。

主に小中学生に指導もしています。

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