内村鑑三とはーキリスト教徒・不敬事件


内村鑑三

内村鑑三

 

うちむらかんぞう

1861年~1930年

 

 

教科書では、日露戦争に反対したキリスト教徒として登場します。

 

内村鑑三は、東京外国語学校で英語を学び、その後新しく創立された札幌農学校に進みました。

同じような進路を進んだ同級生には、のちに国際連盟事務局次長となり、5000円札にも使われた新渡戸稲造がいます。

このとき「少年よ大志を抱け」で有名なクラーク博士の影響により、農学校の生徒はみんなキリスト教へ改宗しています。

内村は嫌がっていましたが、友人・新渡戸の改宗などにより、当初は、半ば強引にキリスト教信者になったとも言われています。

 

農学校卒業後は、開拓使に勤めながら、札幌独立キリスト教会設立に奔走しました。

開拓使廃止後は、アメリカに留学、同志社創立で知られる新島襄のすすめで、新潟県の北越学館の教頭となっています。

しかし、指導方針をめぐって、宣教師と対立、生徒も巻き込む事件となり、わずか4か月で辞職しました。

次に第一高等中学校の嘱託教員となりますが、ここでも退職に追い込まれています。

ここでは教育勅語奉読式において、明治天皇の署名に最敬礼しなかったため、非難されることになりました。

さらにマスコミがキリスト教信仰と結び付け「内村鑑三不敬事件」として、大きく取り上げたため、社会問題となりました。

その後は、『万朝報(よろずちょうほう)』を創刊した黒岩涙香の強い要望により、ここで英文欄を書くことになりました。

しかし『万朝報』が日露戦争反対から主戦論に転じると、幸徳秋水らとともに退職しています。

 

キリスト教に関しては、当時あった教会ありきの仕組みを批判し、聖書の研究などを主としました。

2つのJ(イエスと日本)を愛した内村の考えは、日本的キリスト教の考え方で、教会を必要とせず無教会主義といわれます。

一方、足尾銅山鉱毒事件にかかわるなど、社会主義者と行動を共にしてきましたが、徐々に距離を置くようになっていきました。

その後も新渡戸稲造とともに多くの人材を育て、70歳で亡くなりました。

 

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プロフィール

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愛知県豊橋市三本木町の某個別指導塾・塾長です。

愛知県田原市生まれ、豊橋市育ち。

文学部史学科卒のため、歴史ネタが多くなります。

主に小中学生に指導もしています。

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