日比谷焼き討ち事件をわかりやすく


日比谷焼き討ち事件

日比谷焼き討ち事件

 

1905年9月

教科書では、ポーツマス条約で賠償金が得られないために、

東京で起こった暴動と書かれています。

 

日比谷焼き討ち事件は、東京都の日比谷公園で行われた国民集会がきっかけです。

日比谷公園は日比谷公会堂などがあり、今でもよくイベントが行われる場所で、ドラマの撮影にもよく使われます。

 

ポーツマス条約を理由に起きた事件ですが、この条約は日露戦争の講和条約として結ばれたものです。

日露戦争は日本が優勢で進み、ロシアのバルチック艦隊東郷平八郎の日本の連合艦隊が倒したことで講和へと進みました。

アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領が仲介し、ポーツマスで交渉が行われたため、ポーツマス条約といいます。

 

日本国民は日露戦争における日本勝利のニュースを聞いていたため、ロシアからの賠償金を期待していました。

このとき日本国民は、日露戦争の軍事費を出すための増税に苦しんでいました。

しかし、ロシアは賠償金の支払いを拒否、これ以上ロシアとの戦争を続ける力とお金がなかった日本は、これを受け入れました。

なおこのときの日本全権は関税自主権の回復で中学でも覚える小村寿太郎で、小村も国民の非難の対象となりました。

 

このことに不満を抱いた日本国民は、全国各地で講和条約反対を訴える集会を開きました。

この集会のひとつが、日比谷公園で行われた講和反対国民大会でした。これに対し、警視庁は公園を封鎖します。

しかし、このことに怒った参加者が暴徒化、新聞社・警察署・大臣官邸を襲撃、破壊しました。

これに対し、日本政府は戒厳令(かいげんれい)を敷き、軍隊を出動させて、この暴動をおさめました。

死者17名、負傷者500名以上、検挙者2000名以上にも及ぶ大事件となりました。

戒厳令とは、非常事態に際し、軍隊に治安維持の権限を与える、天皇大権(議会の協力なしに行使できる権利)のひとつです。

他に関東大震災や、二・二六事件でも出されています。

 

中学生が覚えておきたい歴史事件一覧

 

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プロフィール

管理者:DN

愛知県豊橋市三本木町の某個別指導塾・塾長です。

愛知県田原市生まれ、豊橋市育ち。

文学部史学科卒のため、歴史ネタが多くなります。

主に小中学生に指導もしています。

東三河の方で、教室に興味のある方はこちらのお問い合わせフォームより、お問い合わせください。塾ではない形で指導を希望される方も、一度ご相談ください。あなたから新しい指導の形が見つかるかもしれません。

 

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