岩倉具視とはー岩倉使節団の全権大使


岩倉具視

岩倉具視

 

いわくらともみ

1825年~1883年

 

 

教科書では、岩倉使節団の全権大使として登場します。教科書にもありますが、アメリカで撮った使節団の写真が有名です。

岩倉具視は、朝廷に使える貴族(公家)の次男として生まれ、同じく公家の岩倉家の養子になりました。

日本がアメリカと日米修好通商条約を結ぶ際には、反対の立場をとり、これを結ばせませんでした。

その後は公武合体の中心となり、通商条約の破棄を条件に、天皇の妹と将軍・徳川家茂との結婚を認めることを進言しています。

しかしこのことにより幕府を擁護する立場(佐幕派)と見られるようになり、尊王攘夷派が岩倉を排除する動きが出てきます。

こうして岩倉は失脚し、出家して、表舞台から姿を消しました。

 

その後、禁門の変蛤御門の変)により、急進的な攘夷派はいなくなったため、再び活動を開始しています。

このとき薩摩藩同様、公武合体から討幕論へ転向しています。

そして、薩摩の大久保利通らと将軍・徳川慶喜を排除する計画を立てます。

こうして1867年に王政復古の大号令が発表され、岩倉具視は新政府最初の官職・三職のひとつ参与(さんよ)となりました。

 

明治政府では、外務省の長官と内大臣を兼務、欧米との条約改正のため、岩倉使節団を作りました。

条約改正は成功しませんでしたが、日本の遅れを知ることとなり、留学なども含め、視察に重点が置かれるようになります。

このとき政府(留守政府という)を預かっていた西郷隆盛らが、朝鮮への開国をせまる「征韓論」を主張します。

岩倉は帰国後、征韓論への反対の立場をとり、西郷と対立、自らがトップである太政大臣の代理となり、征韓論を退けました。

 

その後も政府の中心として活躍、国会の早期解説を目指した大隈重信を罷免しています(明治十四年の政変)。

そして59歳でがんにより亡くなりました。日本で初めてがんを宣告された人物ともいわれています。

死後は、500円札に肖像が使用されました。俳優・歌手の加山雄三は、岩倉の玄孫(やしゃご・ひ孫の子)にあたります。

 

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プロフィール

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愛知県豊橋市三本木町の某個別指導塾・塾長です。

愛知県田原市生まれ、豊橋市育ち。

文学部史学科卒のため、歴史ネタが多くなります。

主に小中学生に指導もしています。

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