慶長の役をわかりやすくー豊臣秀吉・李参平・李舜臣


慶長の役

 

けいちょうのえき

安土桃山時代

1597年~1598年

 

文禄の役後、日本と中国の明は講和に向かいますが、明使・沈惟敬(しんいけい)の策などにより交渉は失敗します。

こうして豊臣秀吉は再度朝鮮へ出兵します。これを慶長の役といいます。

このとき日本では大地震が発生、そのため元号が慶長と改元されています。

なお朝鮮史においては、丁酉(ていゆう)の倭乱と言い、文禄の役、慶長の役を合わせて壬辰・丁酉の倭乱と呼びます。

 

文禄の役の時同様、小西行長加藤清正が一番隊、二番隊を務めました。

この戦いは明が14万の援軍を送ってきたため、日本軍は苦戦します。

また前の戦い同様、のちに韓国の英雄となる李舜臣(りしゅんしん)の朝鮮水軍も活躍しました。

李舜臣は露梁海戦でも日本水軍を破っていますが、このとき戦死しています。

そしてこの戦いの途中、豊臣秀吉が亡くなったため、徳川家康、前田利家ら五大老・五奉行は撤退を決定します。

この戦いで日本の武士や農民は重い負担に苦しみ、大名間の対立まで起こり、朝鮮侵略は豊臣氏が没落する原因にもなりました。

 

和平交渉は秀吉死後実権を握った徳川家康の命を受け、対馬藩が行いました。

その後朝鮮側も実権が豊臣家から徳川家に移ったことを確認、正式な和平となっています。

そしてこれがのちの朝鮮の慶賀使節・朝鮮通信使へとつながっていきます。明はその後滅亡したため、交渉は行われていません。

 

文禄の役後、多くの朝鮮人は捕虜として日本に連れてこられ、ここから優れた陶工が生まれています。

中でも李参平(りさんぺい)は佐賀の有田で磁器を製造、これが有田焼の始まりと言われています。

有田町には「陶祖李参平」をたたえる石碑も建てられています。

江戸時代に有田焼はヨーロッパに輸出され、日本を代表する焼き物となっています。

ほかにも平戸焼、唐津焼、萩焼、薩摩焼、波佐見焼、高取焼なども朝鮮から連れてこられた陶工が始めたものになります。

 

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プロフィール

管理者:DN

愛知県豊橋市三本木町の某個別指導塾・塾長です。

愛知県田原市生まれ、豊橋市育ち。

文学部史学科卒のため、歴史ネタが多くなります。

主に小中学生に指導もしています。

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