坂上田村麻呂とはーライバルは阿弖流為(アテルイ)


坂上田村麻呂

坂上田村麻呂

 

さかのうえのたむらまろ

758年~811年

教科書は太字ではない

 

中学の教科書には、支配に従おうとしない東北地方の蝦夷(えみし)に対して働きのあった、征夷大将軍と紹介されています。

 

坂上氏は、渡来人の阿知使主(あちのおみ)を祖先とする、武門の一族でした。

坂上田村麻呂の見た目は、赤い顔で、金色の髪やひげをし、大刀を常に持った大男だったとも言われています。

当時日本は阿弖流為(アテルイ)率いる蝦夷との争いが激化しており、田村麻呂もその戦いに数度参加しました。

そして、蝦夷討伐のための臨時の将軍職として、桓武天皇より征夷大将軍に任じられました。

鎮守府(ちんじゅふ・蝦夷征討の拠点となる場所のこと)に胆沢城(いざわじょう)、志波城(しわじょう)を築きました。

この最中、田村麻呂は命を救うよう頼んでいますが聞き入れられず、阿弖流為(アテルイ)は処刑されています。

このあたりのことは教科書にも、処刑されたと伝わる場所にある塚の写真と共に紹介されています。

 

その後、田村麻呂は大納言、右近衛大将にまで出世しています。

京都の清水寺を大規模に改築したため、清水寺では田村麻呂を「本願」と位置付けています。

平城上皇と嵯峨天皇の対立によって発生した薬子(くすこ)の変では、勝利した嵯峨天皇側についています。

このとき上皇側として捕らえられた文室綿麻呂(ぶんやのわたまろ)を、上皇を討つ軍に加え、綿麻呂は許されています。

この文室綿麻呂が次の征夷大将軍となり、蝦夷平定を完了しています。

これによって征夷大将軍は廃絶になります。

後に征夷大将軍は復活しますが、それは本来の意味ではなく、武家の棟梁の意味で使われるようになります。

 

54歳で病死しました。

そののちも武人の代表として文武のシンボル的存在でした(文人は菅原道真)。

三十六歌仙のひとりで、百人一首にも歌がある坂上是則(さかのうえのこれのり)は、田村麻呂の子孫と言われています。

 

 

※教科書とは、東京書籍発行の「新しい社会」を指します。

 

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プロフィール

管理者:DN

愛知県豊橋市三本木町の某個別指導塾・塾長です。

愛知県田原市生まれ、豊橋市育ち。

文学部史学科卒のため、歴史ネタが多くなります。

主に小中学生に指導もしています。

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