島津久光とはー島津斉彬の弟・文久の改革・生麦事件


島津久光

島津久光

 

しまづひさみつ

1817年~1887年

演:青木崇高

 

島津久光は、第12代薩摩藩主・島津忠義の父で、第11代藩主・島津斉彬の弟です。

 

第10代藩主・島津斉興は、久光を次の藩主と考えていましたが、幕府の介入により、兄の斉彬が次の藩主となりました。

斉彬死後は、その遺言により、久光の子で斉彬の養子となっていた島津茂久(もちひさ・後の忠義)が藩主となりました。

そして、薩摩藩の実質的最高権力者として、小松帯刀を家老に任命、西郷隆盛大久保利通ら下級藩士を抜擢しています。

 

1862年には、公武合体派の中心として、兵を率いて江戸に行きました。

そして文久の改革を推進し、一橋慶喜を将軍後見職、松平慶永(春嶽)を政事総裁職にしています。

その帰りに、いっしょに行った薩摩藩士がイギリス人4名の久光の行列への非礼をとがめ、殺傷した生麦事件が起こっています。

これは薩英戦争に発展しますが、講和後、久光と茂久親子はかえってイギリスとの関係を深めています。

しかし、先代・島津斉彬から進められた公武合体は尊王攘夷派や討幕派が勢いを強めたため、失敗に終わりました。

その後第14代将軍・徳川家茂が亡くなり、一橋慶喜が第15代将軍・徳川慶喜となりました。

しかし、将軍・慶喜と有力大名である島津久光、松平慶永、山内豊信(容堂)伊達宗城の意見は対立します。

これにより久光は路線変更を余儀なくされ、薩摩藩は討幕派の中心となっていきます。

そして大政奉還と同じ日に、久光・茂久親子には、倒幕の密勅が下され、戊辰戦争へとつながっていきました。

 

明治維新後、島津久光は内閣顧問・左大臣にまでなっていますが、新政府のやり方には批判的でした。

廃藩置県廃刀令などにも、あからさまに反発的な行動をとっています。

71歳で亡くなりましたが、その維新への功績から葬儀は国葬で行われました。

島津忠義は鹿児島藩知事となりました。また、その孫は昭和天皇の皇后になっており、島津氏は皇室とも深い関係にあります。

 

スポンサーリンク

 

 

 

スポンサーリンク








プロフィール

管理者:DN

愛知県豊橋市三本木町の某個別指導塾・塾長です。

愛知県田原市生まれ、豊橋市育ち。

文学部史学科卒のため、歴史ネタが多くなります。

主に小中学生に指導もしています。

東三河の方で、教室に興味のある方はこちらのお問い合わせフォームより、お問い合わせください。塾ではない形で指導を希望される方も、一度ご相談ください。あなたから新しい指導の形が見つかるかもしれません。

 

友だち追加