豊臣秀頼とはー秀吉の子・大阪の陣


豊臣秀頼

豊臣秀頼

 

とよとみひでより

1593年~1615年

 

 

中学の教科書では、石田三成が豊臣秀頼の政権を守ろうと、関ヶ原の戦いを起こしたとあります。

 

豊臣秀頼は、豊臣秀吉の子で、母は織田信長の妹・お市の方の子の淀君(よどぎみ)です。

秀頼誕生時秀吉は57歳で、秀頼をサポートするために有力大名と秀吉直属の部下による五大老五奉行の制度を作りました。

しかし秀吉死後、五大老筆頭徳川家康が秀吉の決めたきまりを次々と破り、勢力を伸ばしていきます。

秀吉の友人で五大老として家康と肩を並べた前田利家死後、その傾向はさらに強まっていきました。

 

この状況を憂いた石田三成らが、徳川家康に対して関ヶ原の戦いをおこします。

この関ヶ原の戦いは豊臣家対徳川家ではなく、あくまで豊臣家の部下同士の戦いでした。

しかし、関ヶ原の戦いに勝利した家康は、五大老筆頭の名のもとに、豊臣秀頼を約60万石のいち大名にしてしまいました。

そして、家康は征夷大将軍となり、江戸幕府を開きます。

ただ秀頼は家康と対立していたわけではなく、秀頼は2代将軍・徳川秀忠の娘、つまり家康の孫と結婚しています。

 

その後、秀頼が再建した方広寺の鐘の字に「国家安康」と家康の名前が割って書かれたことに家康がクレームをつけます。

この方広寺鐘銘問題は、家康によるこじつけか、正当な反論かは意見が分かれます。

この問題がきっかけで豊臣家と徳川家は決裂し、2度の大阪の陣がおこります。

最初の大坂冬の陣では、真田幸村(信繁)らの活躍により、徳川家は苦戦、一度和議を結びました。

しかし和議はすぐに破れ、大阪夏の陣がおこり、秀頼は母の淀君らと自殺しました。

秀頼は、貧弱なイメージで描かれることも多いですが、実際は身長197㎝、体重161kgもあったとも書かれています。

現代でもかなり大きいですが、平均身長が160㎝なかった当時では、相当な大男になります。

家康はこの成長した秀頼を見て、徳川家の将来に危険を感じ、豊臣家を倒しておくべきだと考えたとも言われています。

 

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プロフィール

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愛知県豊橋市三本木町の某個別指導塾・塾長です。

愛知県田原市生まれ、豊橋市育ち。

文学部史学科卒のため、歴史ネタが多くなります。

主に小中学生に指導もしています。

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