ノルマントン号事件をわかりやすくー歴史で中学生が知っておきたい事件


ノルマントン号事件

ノルマントン号事件

 

1886年

教科書では、欄外に絵(風刺画)付きで解説、

これにより、不平等条約の改正を求める世論が高まったとあります。

 

ノルマントン号事件のノルマントン号とは、ドレーク船長率いるイギリスの貨物船です。

この船が、暴風雨により紀伊半島沖で難破しましたが、乗っていたイギリス人、ドイツ人は全員救命ボートで脱出しました。

これに対し、乗っていた日本人は全員おぼれて死亡しました(他にアジア人もいたという意見もあります)。

 

この出来事に対し、日本国民は人種差別により起きた事件だと激しく非難します。

当時の外務卿(がいむきょう・外務大臣)・井上馨(いのうえかおる)も、このことを不審に思い、調査を命令しています。

この事件の裁判は、当時、領事裁判権(治外法権)が認められていたため、神戸領事館でイギリス人によって行われました。

ドレークは日本人に英語が伝わらなかったと主張、結果全員無罪となり、この結果に日本国民はさらなる怒りを持ちました。

 

この状況を井上馨も無視できず、兵庫県知事に命じて告訴、再度裁判が行われることになりました。

この裁判によって、ドレーク船長は、禁固3か月となりましたが、遺族に対する賠償金はありませんでした。

なお賠償金がなかったのは、日本とイギリスの関係が悪くなるのを、政府が望まなかったからだと言われています。

義援活動をしていた福沢諭吉もこの状況を不安に思い、起訴停止を遺族に求めたと言われています。

 

日本国民は、この事件により、不平等条約の改正、領事裁判権の撤廃の必要性を感じるようになりました。

井上馨による極端な欧化政策と、外国人判事を任用する井上改正案は、非難を浴び、井上馨は辞職しています。

その後井上改正案を若干改正させた、大隈重信(おおくましげのぶ)による改正案も失敗します。

大隈重信は暗殺未遂で負傷し、内閣は総辞職しました。

そして、こののち、陸奥宗光(むつむねみつ)が日英通商航海条約を結び、領事裁判権は撤廃されました。

 

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プロフィール

管理者:DN

愛知県豊橋市三本木町の某個別指導塾・塾長です。

愛知県田原市生まれ、豊橋市育ち。

文学部史学科卒のため、歴史ネタが多くなります。

主に小中学生に指導もしています。

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