平将門とはー実は皇族の血を引く人物


平将門

平将門

 

たいらのまさかど

 ? ~940年

教科書は太字ではない

 

中学の教科書では、10世紀ごろ、北関東で平将門が朝廷に不満を感じて、武士団を率いて大きな反乱を起こしたとあります。

 

平将門平高望(たかもち)こと高望王の孫にあたります。

高望王は桓武天皇のひ孫にあたり、臣籍に降下し(皇族でなくなること)、平の姓を受けた人物です。

よって桓武平氏と呼ばれ、清和天皇の孫である、清和源氏源経基(つねもと)とともに武士の棟梁となりました。

 

平高望の子、つまり平将門の父の平良将(よしまさ)が早くに亡くなり、その遺産を将門のおじの平国香らが奪おうとします。

これによって平将門と平国香(くにか)らの間に相続争いが起こります。

ちなみに平国香の子孫が平清盛になります。

結果、平将門が平国香を殺し、その他のおじとの争いにも勝って、将門は関東一帯で大きな力を持つようになりました。

この頃はわいろを求めたりする役人ばかりで、それらと対立する将門は民衆の間では英雄とされていたとも言われています。

 

しかし、その後平国香の子、平貞盛や源経基らとの間にいざかいが起き、将門は朝廷に対して、反乱を起こすことになります。

これは将門が積極的に起こしたものではなく、やむを得ず、反乱を起こすことになったとも考えられています。

ほぼ同時期に藤原純友も反乱を起こしていることから、合わせて承平・天慶の乱(じょうへい・てんぎょう)とも言います。

そして将門は皇族の血筋でもあったことから、自らを新皇と称し、猿島を内裏としました。

これに対し、平貞盛とのちに奥州藤原氏の祖となる藤原秀郷(ひでさと)が協力し、将門は討たれました。

平将門の首は平安京まで運ばれ、さらし首になりました。

わかっている中では、さらし首になった一番最初の人物です。

その首塚は、平将門の祟りがあると言われ、今でもいろいろなうわさがあります。

 

 

※教科書とは、東京書籍発行の「新しい社会」を指します。

 

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プロフィール

管理者:DN

愛知県豊橋市三本木町の某個別指導塾・塾長です。

愛知県田原市生まれ、豊橋市育ち。

文学部史学科卒のため、歴史ネタが多くなります。

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