寺内正毅をわかりやすくー朝鮮総督府・西原借款・米騒動


寺内正毅

寺内正毅

 

てらうちまさたけ

1852年~1919年

 

 

教科書では、藩閥の寺内正毅内閣が米騒動によって、退陣したと出てきます。

寺内正毅は、長州出身で幕末には、高杉晋作の奇兵隊にも参加しています。

西郷隆盛がおこした西南戦争では、前線での戦いを志願し負傷、これによって右手は動かなくなってしまいました。

日清戦争では、兵站の最高責任者、義和団事件でも、現地で活躍しました。

 

陸軍大将の桂太郎が組閣した桂内閣(第一次)では、陸軍大臣となりました。

その後の西園寺内閣(第一次)桂内閣(第二次)でも陸相を務め、日清・日露戦争での功績から陸軍大将、元帥となりました。

韓国併合後、朝鮮を統治する機関として設置された朝鮮総督府の初代総督となり、日本の全権を担うこととなります。

そして朝鮮総督としての功績により、1916年内閣総理大臣となり、寺内内閣を組閣しました。

 

しかし寺内内閣は、非立憲的な藩閥政治を行い非難されます。

寺内がビリケン像(通天閣のが有名)に似ていたことから「ビリケン(非立憲)内閣」「ビリケン宰相」とも言われました。

また中国の軍閥政治家・段祺瑞(だんきずい)を支持し、西原亀三を派遣し多くの資金を貸しています。

これは西原借款(にしはらしゃっかん)と呼ばれ、中国の内乱を助長するものとして、内外から非難をあびました。

石井菊次郎はアメリカと協定し、アメリカは中国における日本の「特殊権益」、日本は中国の「門戸開放」を承認しました。

これは石井・ランシング協定といわれ、列国の利権獲得を排除しようとする主張の根拠となりました。

そしてシベリア出兵を行い、これによって米騒動が起き、その責任を取って寺内内閣は総辞職しました。

 

なお、寺内正毅の父は宇多田正輔といい、3男だった寺内正毅は母方の寺内家を継いだため、寺内といいます。

この宇多田家の子孫が、ミュージシャンの宇多田ヒカルにあたります。

よって、寺内正毅と宇多田ヒカルは遠い親戚関係にあると言われています。

 

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プロフィール

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愛知県豊橋市三本木町の某個別指導塾・塾長です。

愛知県田原市生まれ、豊橋市育ち。

文学部史学科卒のため、歴史ネタが多くなります。

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