カテゴリー: 社会
殷、周とはー歴史で中学生が知っておきたい中国史
殷、周
いん
しゅう
日本:縄文時代
殷は、中国最古の王朝として、教科書には優れた青銅器や、漢字のもとになった甲骨文字が作られたとあります。
殷以前にも夏王朝というのがあったという意見もありますが、これはまだ伝説のままです。
ちなみに殷も19世紀に遺跡(殷墟・いんきょ)が発見されるまで、伝説の王朝と言われていました。
なお発見された甲骨文字(こうこつもじ)には、殷ではなく商(しょう)と書いてあります。
殷は周が呼んだ王朝名で、殷の都の名でもあります。
殷王朝をつくったのは、契(せつ)という人物ですが、これは伝説上の人物と言われています。
他にも日本同様中国にも、それ以前に堯(ぎょう)・舜(しゅん)・禹(う)など、古代の伝説上の帝王たちは存在します。
占いによって農事・軍事・祭儀・王位継承などが行われました。これを神権政治や神聖政治と言います。
多くの都市国家が集まってできていた国だったと、考えられています。
周は、教科書では殷を滅ぼした国と記述があるくらいで、太字でもありません。
殷の紂王(ちゅうおう)を周の初代の王である武王(ぶおう)が倒して、成立しました。
第2代成王(せいおう)、第3代康王(こうおう)のときが安定期で、その後衰退していきます。
周のころには、神権政治から、ピラミッド型の統治組織(封建制度)によって支配されるようになりました。
周は順番に西周、東周とあり、首都の位置が違います。
また、東周の時にはもはや西周のときのような力は持っておらず、いくつかある国の一つにすぎませんでした。
よって東周時代と、その後の春秋戦国時代は時期が重なっています。
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新井白石とはー中学歴史の教科書 新登場人物2
2017年9月11日
社会, 歴史教科書 新登場人物
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w.sanbongi
新井白石とはー中学歴史の教科書 新登場人物2
教科書では、「正徳の治」を行った人物として初登場します。
新井白石はもともとは浪人で、朱子学者の木下順庵のもとで学びました。
その才能を認められ、順庵の推挙により甲府藩主・徳川綱豊(つなとよ)に仕え側近となります。
その時の将軍・徳川綱吉には世継ぎがいなかったため、綱吉の兄の子である綱豊が将軍家の世継ぎとなりました。
そして第6代将軍になると綱豊は徳川家宣(いえのぶ)と名を改め、綱吉時代の大老格・柳沢吉保(よしやす)を隠居させます。
また大学頭の林信篤(のぶあつ)に代わって、甲府藩時代の側近の新井白石や間部詮房(まなべあきふさ)を採用しました。
こうして新井白石は政治の表舞台に登場することになりますが、ただの旗本が政治の中心に入るのは異例のことでした。
新井白石は、先代将軍・徳川綱吉の政治を否定し、生類憐みの令を早々に廃しました。
正徳金銀を発行し、貨幣の質も元に戻して、貿易額を制限しました。
幕府の儀式を整え、朝鮮通信使の接待を簡素化する政策(朝鮮使節待遇問題)で、幕府の出費を抑えていきました。
また皇室においては、閑院宮家(かんいんのみやけ)を新しく創立しています。
当時の宮家は、伏見宮家・京極宮家・有栖川宮家の3家でしたが、これに加えて天皇の第8皇子直仁親王を立てて創立しました。
のちにこの閑院宮家から天皇が出ており、これが今の天皇まで続いています。
これらは、家宣死後の第7代将軍・徳川家継のときまで行われ、この新井白石の政治を「正徳の治」と言います。
しかし家継が亡くなり、第8代将軍に徳川吉宗がつくと、白石は失脚し、その政策は吉宗によってくつがえされました。
新井白石は多くの書物も残しており、徳川政権の正統性を述べた『読史余論(とくしよろん)』があります。
他にも『古史通(こしつう)』や白石の自伝『折たく柴の記(おりたくしばのき)』などがあります。
※教科書とは、東京書籍発行の「新しい社会」を指します。
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