安政の大獄をわかりやすくー井伊直弼・一橋慶喜・吉田松陰


安政の大獄

 

あんせいのたいごく

江戸時代

 

 

安政の大獄とは、大老・井伊直弼が幕府の政策に反対する人たちを処罰し、その力を押さえようとした事件です。

1858年、1859年、元号でいう安政5年、6年に行われたため、安政の大獄と言われます。

 

安政の大獄は、江戸幕府第13代将軍・徳川家定に後継ぎがいないためにおこった「将軍継嗣問題」からきています。

このとき次の将軍に、一橋慶喜(よしのぶ)を推す一橋派と、徳川慶福(よしとみ)を推す南紀派とで対立が起きます。

この南紀派の筆頭が彦根藩主で、譜代大名の中でも最も力を持っていた井伊氏の井伊直弼でした。

井伊直弼は、最高職である大老に就任し、強引に徳川慶福(後の家茂)を将軍の後継ぎにします。

これに反対した一橋派の徳川斉昭(なりあき・慶喜の父)や、福井藩主・松平慶永春嶽)は、直弼を問い詰めようとします。

しかし、直弼は逆に彼らを蟄居(ちっきょ)・謹慎(きんしん)処分にしています。

一橋派の薩摩藩主・島津斉彬は兵を動かしこれに反対しようとしますが、急死してしまいます。

こうしてこの動きに関わった人たちも、処罰の対象となりました。西郷隆盛もこの事件の影響で、島流しになっています。

 

この事件で亡くなった人物は、中学の教科書にも載っている吉田松陰(しょういん)が最も知られています。

多くの討幕派の人物を輩出した松下村塾(しょうかそんじゅく)を開いた人物で、死刑となっています。

他に松平慶永の家臣だった橋本左内(さない)も処刑、若狭小浜藩士・梅田雲浜(うんぴん)は獄中で病死しました。

一橋慶喜をはじめ、松平慶永・伊達宗城山内豊信容堂)ら一橋派の藩主クラスは謹慎処分となりました。

他にも朝廷の大臣クラスや、前関白なども処分の対象となり、その数は100人を超えました。

 

しかし、1860年、安政の大獄に怒った水戸藩士らによって、井伊直弼は殺害されます(桜田門外の変)。

これにより事態が収束、謹慎中だった一橋慶喜や松平慶永らが復帰し、公武合体へと進んでいきました。

 

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プロフィール

管理者:DN

愛知県豊橋市三本木町の某個別指導塾・塾長です。

愛知県田原市生まれ、豊橋市育ち。

文学部史学科卒のため、歴史ネタが多くなります。

主に小中学生に指導もしています。

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