投稿者: w.sanbongi
新井白石とはー中学歴史の教科書 新登場人物2
新井白石とはー中学歴史の教科書 新登場人物2
教科書では、「正徳の治」を行った人物として初登場します。
新井白石はもともとは浪人で、朱子学者の木下順庵のもとで学びました。
その才能を認められ、順庵の推挙により甲府藩主・徳川綱豊(つなとよ)に仕え側近となります。
その時の将軍・徳川綱吉には世継ぎがいなかったため、綱吉の兄の子である綱豊が将軍家の世継ぎとなりました。
そして第6代将軍になると綱豊は徳川家宣(いえのぶ)と名を改め、綱吉時代の大老格・柳沢吉保(よしやす)を隠居させます。
また大学頭の林信篤(のぶあつ)に代わって、甲府藩時代の側近の新井白石や間部詮房(まなべあきふさ)を採用しました。
こうして新井白石は政治の表舞台に登場することになりますが、ただの旗本が政治の中心に入るのは異例のことでした。
新井白石は、先代将軍・徳川綱吉の政治を否定し、生類憐みの令を早々に廃しました。
正徳金銀を発行し、貨幣の質も元に戻して、貿易額を制限しました。
幕府の儀式を整え、朝鮮通信使の接待を簡素化する政策(朝鮮使節待遇問題)で、幕府の出費を抑えていきました。
また皇室においては、閑院宮家(かんいんのみやけ)を新しく創立しています。
当時の宮家は、伏見宮家・京極宮家・有栖川宮家の3家でしたが、これに加えて天皇の第8皇子直仁親王を立てて創立しました。
のちにこの閑院宮家から天皇が出ており、これが今の天皇まで続いています。
これらは、家宣死後の第7代将軍・徳川家継のときまで行われ、この新井白石の政治を「正徳の治」と言います。
しかし家継が亡くなり、第8代将軍に徳川吉宗がつくと、白石は失脚し、その政策は吉宗によってくつがえされました。
新井白石は多くの書物も残しており、徳川政権の正統性を述べた『読史余論(とくしよろん)』があります。
他にも『古史通(こしつう)』や白石の自伝『折たく柴の記(おりたくしばのき)』などがあります。
※教科書とは、東京書籍発行の「新しい社会」を指します。
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徳川家光がしたことー歴史で中学生が覚えておきたい徳川将軍2
2017年9月12日
社会, 覚えておきたい徳川将軍
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w.sanbongi
徳川家光
とくがわいえみつ
第3代将軍
1604年~1651年
教科書では太字で登場する、徳川家康の次に覚えておかなければならない徳川将軍です。
参勤交代を行い、朱印船貿易の停止、日本人の出入国禁止、出島を築いたことが記述されています。
徳川家光は初代徳川家康の孫であり、第2代徳川秀忠の子になります。
家光の「家」は家康の「家」であり、家光より徳川将軍家の嫡男は、この「家」の字が付けられることになります。
江戸幕府が280年にわたり続いたのは家光の功績が大きいとされています。
20歳で将軍になりますが、父の徳川秀忠は徳川家康のように将軍を譲った後も実権を握り続けていました。
よって、その実績の多くは父秀忠が亡くなった後のものになります。
職制としては、大老、老中、若年寄、大目付、目付、三奉行、京都所司代などを定めました。
武家諸法度(ぶけしょはっと)を改正し、江戸と国元を1年交代で住む参勤交代を制度化しました。
このように家光は秀忠のころからの大名統制をさらに強化することによって、徳川家の力はますます強くなりました。
1635年には、朱印船貿易を停止し、日本人の出国と帰国をいっさい禁止とします。
さらに島原の乱後は、ポルトガル船の来航を禁止します。
そして平戸のオランダ商館を長崎の出島に移し、鎖国を完成させました。
1641年には、西日本の干ばつ、東日本の長雨・冷害により、大飢饉になりました(寛永の大飢饉・かんえいのだいききん)。
このため、1643年には百姓の没落とお金持ちの百姓への土地集中を防ぐために、田畑永代売買禁止令を発令しています。
「大奥」という仕組みが機能したのも、徳川家光の代からと言われています。
日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)の大規模改修も有名です。
48歳で亡くなりました。次の第4代将軍徳川家綱はわずか11歳で将軍になることになりました。
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