RYUICHI(LUNA SEA)とはービジュアル系の歴史
RYUICHI
1970年5月20日生まれ
LUNA SEA
ボーカル
RYUICHIは、LUNA SEAのボーカルでソロ活動もしています。ソロ活動では、河村隆一(かわむらりゅういち)で活動します。
LUNA SEAには最後に加入しており、メンバー全員神奈川県出身ですが、他のメンバーと出身市が一人だけ異なります。
ちなみにSUGIZO、INORAN、Jの3人は中学の同級生です。SUGIZOと真矢は高校の同級生です。
LUNA SEAの作詞・作曲はLUNA SEA名義になっていますが、実際の作詞はRYUICHIが行うことが多いです。
インディーズ時代は、LUNACYでしたが、途中でLUNA SEAに変更、各会場ソールドアウトの人気を得ます。
最初のインディーズアルバムはYOSHIKIのエクスタシーレコードより発売、これ以降、YOSHIKIとの関係が出来上がります。
この後も演奏会場はどんどん大きくなりますが、軒並みソールドアウトし、1992年、メジャーデビューします。
メジャーデビュー後も、LUNA SEAはオリコン1位を取るなど活躍し、そののち1年活動休止をしています。
この活動休止期間に、RYUICHIは、河村隆一の名義でソロ活動を開始します。
曲調はLUNA SEAのものとは異なり、ビジュアル系のボーカリストとはある種、真逆のようなイメージでした。
曲はデビュー曲から立て続けにヒットし、シングル『Glass』は100万枚のミリオンヒットしています。
さらにアルバム『Love』は約300万枚を売り上げ、男性ソロアーティストのアルバム売上1位を記録しました。
年末には、ソロでNHK紅白歌合戦にも参加、その他、ドラマ、バラエティーにも出演、この年の顔ともいえる活躍でした。
翌年、LUNA SEAは活動を再開しますが、このソロ活動での活躍がLUNA SEAの存在をより高めることとなりました。
LUNA SEA解散後は、ソロ活動のほかにINORANらとTourbillion(トゥールビヨン)を結成しています。
LUNA SEA復活後は、「LUNATIC FEST.」を開催するなど、LUNA SEAとして精力的に活動しています。
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山城国一揆をわかりやすくー国一揆の代表例
2018年11月13日
歴史で知っておきたい戦争
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w.sanbongi
山城国一揆
やましろのくにいっき
室町時代
1485年
山城国一揆は、国人(こくじん)や、その土地の侍を中心に、農民たちを率いて引き起こされた国一揆の代表例です。
国人とは、その土地の有力武士のことで、国一揆は惣国一揆とも言われます。
似たような言葉に国人一揆がありますが、これは国人たちが自らの領主権を守るために起こした一揆です。
応仁の乱の原因のひとつ、管領・畠山家の畠山政長と畠山義就(よしなり)の家督争いは、応仁の乱後も続きました。
この長きにわたる争いは、南山城(今の京都府南部)の国人や農民を苦しめました。
そして1485年、国人や農民は、畠山両軍の退陣などを要求、宇治平等院に集まり、国中掟(くにじゅうおきて)を定めました。
こうして畠山氏は退陣し、南山城の政治は、三十六人衆といわれる国人の代表者により、行われることとなりました。
この三十六人衆の中には、ライバル家で三管領のひとつ、細川家と関係を持つ人物もいたと言われています。
室町幕府は、これに深く関わることなく、三十六人衆に一定の権限も認める動きを見せました。
これは当時の室町幕府が、山城国が有力守護の支配下に置かれることを望んでいなかったためと考えられています。
しかし国人たちの対立や、農民との対立により、この状況は徐々に崩壊していきます。
国人たちは、幕府に近いグループとそうでないグループに分かれ、幕府に近いグループは、守護の支配下に入りました。
反対グループは、これに対抗しますが、鎮圧され、8年に渡る自治は終わりを迎えました。
これらの出来事は、『大乗院寺社雑事記(だいじょういんじしゃぞうじき)』に記載されており、大事な史料となっています。
また月行事と呼ばれる月単位で幹事を行う役職は、この史料から山城国一揆のときには存在していたことがわかっています。
なおこの山城国一揆は、京大教授の歴史学者で日本中世史、法制史の研究で知られる三浦周行により知られるようになりました。
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