山城国一揆をわかりやすくー国一揆の代表例


山城国一揆

山城国一揆

 

やましろのくにいっき

室町時代

1485年

 

山城国一揆は、国人(こくじん)や、その土地の侍を中心に、農民たちを率いて引き起こされた国一揆の代表例です。

国人とは、その土地の有力武士のことで、国一揆は惣国一揆とも言われます。

似たような言葉に国人一揆がありますが、これは国人たちが自らの領主権を守るために起こした一揆です。

 

応仁の乱の原因のひとつ、管領・畠山家畠山政長畠山義就(よしなり)の家督争いは、応仁の乱後も続きました。

この長きにわたる争いは、南山城(今の京都府南部)の国人や農民を苦しめました。

そして1485年、国人や農民は、畠山両軍の退陣などを要求、宇治平等院に集まり、国中掟(くにじゅうおきて)を定めました。

こうして畠山氏は退陣し、南山城の政治は、三十六人衆といわれる国人の代表者により、行われることとなりました。

この三十六人衆の中には、ライバル家で三管領のひとつ、細川家と関係を持つ人物もいたと言われています。

 

室町幕府は、これに深く関わることなく、三十六人衆に一定の権限も認める動きを見せました。

これは当時の室町幕府が、山城国が有力守護の支配下に置かれることを望んでいなかったためと考えられています。

しかし国人たちの対立や、農民との対立により、この状況は徐々に崩壊していきます。

国人たちは、幕府に近いグループとそうでないグループに分かれ、幕府に近いグループは、守護の支配下に入りました。

反対グループは、これに対抗しますが、鎮圧され、8年に渡る自治は終わりを迎えました。

 

これらの出来事は、『大乗院寺社雑事記(だいじょういんじしゃぞうじき)』に記載されており、大事な史料となっています。

また月行事と呼ばれる月単位で幹事を行う役職は、この史料から山城国一揆のときには存在していたことがわかっています。

なおこの山城国一揆は、京大教授の歴史学者で日本中世史、法制史の研究で知られる三浦周行により知られるようになりました。

 

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プロフィール

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愛知県豊橋市三本木町の某個別指導塾・塾長です。

愛知県田原市生まれ、豊橋市育ち。

文学部史学科卒のため、歴史ネタが多くなります。

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