文禄の役をわかりやすくー豊臣秀吉・名護屋・李舜臣


文禄の役

 

ぶんろくのえき

安土桃山時代

1592年~1596年

 

織田信長の死後、日本を統一した豊臣秀吉は、次に中国・明の征服を目指します。

そのために明に従っていた李氏朝鮮を攻めます。

2度行われますが、最初の戦いをそのときの元号を用いて、文禄の役と言います。

なおこれは日本史での呼び方で、朝鮮史においては、壬辰(じんしん)の倭乱と呼びます。

 

豊臣秀吉は、まず遠征軍の本拠地として、五奉行浅野長政や軍師・黒田孝高に命じて九州の肥前に名護屋城を建設します。

総大将は五大老の中で真っ先に賛成を唱えた宇喜多秀家でした。他の五大老・五奉行は反対だったと考えられています。

島津氏の家臣・梅北国兼(うめきたくにかね)は、朝鮮出兵の軍役に反対して反乱を起こしたとも言われています(梅北一揆)。

 

序盤は小西行長の一番隊が朝鮮に乗り込み大勝、二番隊として乗り込んだ加藤清正も活躍し、日本有利に進みました。

なお加藤清正はこの戦いにおいて、虎を退治したことで有名ですが、これは実話ではないと言われています。

また小西行長と加藤清正は領地が隣同士でいさかいが多く、この戦いでもたびたびもめています。

このことが後の関ヶ原の戦いでの、対立にもつながっていきます。

こうして当時の首都・漢城を占領、さらに今の北朝鮮の首都である平壌(ピョンヤン)まで軍を進めました。

 

しかし朝鮮側も地主らが私兵集団・義民軍(義兵)を結成、日本に対抗します。

後に韓国の英雄と言われる李舜臣(りしゅんしん)は朝鮮水軍を率い、亀甲船を考案し、日本軍に反撃します。

さらに明の軍隊が救援に駆け付け、事態は膠着状態となりました。

明は名将・李如松(りじょしょう)が参戦、碧蹄館(へきていかん)の戦いで、激戦となりました。

そして日本、明ともに食料不足に苦しむなどしたため、朝鮮は反対しましたが停戦講和で話が進んでいきます。

しかし交渉は決裂し、秀吉は再度朝鮮へ出兵、次の慶長の役へと進んでいきます。

 

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プロフィール

管理者:DN

愛知県豊橋市三本木町の某個別指導塾・塾長です。

愛知県田原市生まれ、豊橋市育ち。

文学部史学科卒のため、歴史ネタが多くなります。

主に小中学生に指導もしています。

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