カテゴリー: 歴史で太字ではないけど知っておきたい人物
鑑真とはー中学生は木像の写真で覚える
鑑真
がんじん
688年~763年
教科書は太字ではない
中学の教科書では、日本に渡ろうとして何度も遭難し、盲目になったが、来日後、正しい仏教の教えを広めたとあります。
鑑真は中国・唐の僧侶で、律宗(りっしゅう)という仏教宗派の日本における開祖です。
律宗とは、戒律を自ら実践することが、成仏の因と説く宗派です。
南都六宗(なんとろくしゅう)といわれる、奈良仏教の6学派のひとつです。
戒律とは、僧侶や尼が守るべき、一定の規範のことです。戒は心の規律、律は行動の規律を表します。
当時の日本は聖武天皇の時代で、仏教が盛んでしたが、仏教に対する正しい理解がありませんでした。
そのため、勝手にお坊さんや尼さんになる人、つまり自称お坊さんが続出したそうです。これを私度僧といいます。
このため、鑑真は日本から唐にやってきた僧に、戒律を日本で伝えてほしいと頼まれます。
しかし、中国から出ることは禁止されており、弟子の裏切りや、暴風などにあい、4回渡来に失敗します。
5回目の渡来では、失敗するだけでなく、両目を失明、盲目になってしまいました。
なお失明した理由についてははっきりしておらず、実は失明していなかったという意見もあります。
6回目、鑑真66歳のとき、ようやく遣唐使にともなわれて渡来に成功し、戒律を日本に伝えます。
また、東大寺に初めて僧侶に戒律を授ける儀式(授戒)を行う場所(戒壇)を、設けています。
そして、聖武上皇、孝謙天皇らに授戒をしました。
その後、自ら唐招提寺を創建し、76歳で亡くなりました。
鑑真は彫刻や薬草にも詳しく、これらの知識も鑑真によって伝えられました。
鑑真は教科書にも載っていますが、目をつぶって、座禅をしている木像で知られています。
この木像は、鑑真の死を惜しんだ弟子によって造られたもので、日本で最も古い木像と言われています。
※教科書とは、東京書籍発行の「新しい社会」を指します。
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坂上田村麻呂とはーライバルは阿弖流為(アテルイ)
2018年1月10日
社会, 歴史で太字ではないけど知っておきたい人物
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w.sanbongi
坂上田村麻呂
さかのうえのたむらまろ
758年~811年
教科書は太字ではない
中学の教科書には、支配に従おうとしない東北地方の蝦夷(えみし)に対して働きのあった、征夷大将軍と紹介されています。
坂上氏は、渡来人の阿知使主(あちのおみ)を祖先とする、武門の一族でした。
坂上田村麻呂の見た目は、赤い顔で、金色の髪やひげをし、大刀を常に持った大男だったとも言われています。
当時日本は阿弖流為(アテルイ)率いる蝦夷との争いが激化しており、田村麻呂もその戦いに数度参加しました。
そして、蝦夷討伐のための臨時の将軍職として、桓武天皇より征夷大将軍に任じられました。
鎮守府(ちんじゅふ・蝦夷征討の拠点となる場所のこと)に胆沢城(いざわじょう)、志波城(しわじょう)を築きました。
この最中、田村麻呂は命を救うよう頼んでいますが聞き入れられず、阿弖流為(アテルイ)は処刑されています。
このあたりのことは教科書にも、処刑されたと伝わる場所にある塚の写真と共に紹介されています。
その後、田村麻呂は大納言、右近衛大将にまで出世しています。
京都の清水寺を大規模に改築したため、清水寺では田村麻呂を「本願」と位置付けています。
平城上皇と嵯峨天皇の対立によって発生した薬子(くすこ)の変では、勝利した嵯峨天皇側についています。
このとき上皇側として捕らえられた文室綿麻呂(ぶんやのわたまろ)を、上皇を討つ軍に加え、綿麻呂は許されています。
この文室綿麻呂が次の征夷大将軍となり、蝦夷平定を完了しています。
これによって征夷大将軍は廃絶になります。
後に征夷大将軍は復活しますが、それは本来の意味ではなく、武家の棟梁の意味で使われるようになります。
54歳で病死しました。
そののちも武人の代表として文武のシンボル的存在でした(文人は菅原道真)。
三十六歌仙のひとりで、百人一首にも歌がある坂上是則(さかのうえのこれのり)は、田村麻呂の子孫と言われています。
※教科書とは、東京書籍発行の「新しい社会」を指します。
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