カテゴリー: 歴史で太字ではないけど知っておきたい人物
坂本龍馬とはー海援隊・薩長同盟
坂本龍馬
さかもとりょうま
1835年~1867年
坂本龍馬は、歴史上とても有名な人物ではありますが、中学の教科書では太字ではありません。
それは日本の歴史について考えた場合、それほど重要なことをした人物ではないと考えられているからです。
また坂本龍馬がした薩長同盟をはじめとする有名なことは、坂本龍馬が独自に考えたものではないとも言われています。
最近でも、歴史の暗記の用語を減らすために、坂本龍馬は教科書自体から名前をなくすと議論にもなりました。
坂本龍馬は土佐藩出身です。中学では土佐藩出身者は、坂本龍馬を覚えておけば十分かと思います。
薩摩藩が尊王のために行動を起こすという情報を得ると、それに参加するために土佐藩を抜け出しました。
その後、江戸にて幕府の軍艦奉行並だった勝海舟(かつかいしゅう)と出会い、その門下生となり航海術などを学びました。
そして、長崎で貿易などのために「亀山社中(かめやましゃちゅう・後の海援隊)」という商社をつくります。
このとき薩摩藩・長州藩とも交易し、これが薩長同盟へとつながっていきます。
また、議会の開設や大政奉還などの統一国家構想を述べた、「船中八策(せんちゅうはっさく)」を提案します。
しかし、途中「陸援隊」を組織した中岡慎太郎(なかおかしんたろう)とともに、京都で暗殺されました。
坂本龍馬はいくつか写真も残っています。身長は当時としては、かなり高かったと言われています(169~182㎝の説あり)。
日本で初めて妻・お龍(おりょう)と新婚旅行に行った人物としても、知られています。
大変多くのマンガ、映画、テレビドラマにもなっているので、それらを見ても勉強になります。
NHKの大河ドラマでは、2度主人公として選ばれています(1968年:北大路欣也、2010年:福山雅治)。
歌手で俳優の武田鉄矢は、坂本龍馬の大ファンとして知られており、武田鉄矢所属のグループは海援隊といいます。
ソフトバンクのロゴは、海援隊の旗のデザインがモチーフになっています(海援隊は赤、ソフトバンクはシルバー)。
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岩倉具視とはー岩倉使節団の全権大使
2018年8月1日
歴史で太字ではないけど知っておきたい人物
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w.sanbongi
岩倉具視
いわくらともみ
1825年~1883年
教科書では、岩倉使節団の全権大使として登場します。教科書にもありますが、アメリカで撮った使節団の写真が有名です。
岩倉具視は、朝廷に使える貴族(公家)の次男として生まれ、同じく公家の岩倉家の養子になりました。
日本がアメリカと日米修好通商条約を結ぶ際には、反対の立場をとり、これを結ばせませんでした。
その後は公武合体の中心となり、通商条約の破棄を条件に、天皇の妹と将軍・徳川家茂との結婚を認めることを進言しています。
しかしこのことにより幕府を擁護する立場(佐幕派)と見られるようになり、尊王攘夷派が岩倉を排除する動きが出てきます。
こうして岩倉は失脚し、出家して、表舞台から姿を消しました。
その後、禁門の変(蛤御門の変)により、急進的な攘夷派はいなくなったため、再び活動を開始しています。
このとき薩摩藩同様、公武合体から討幕論へ転向しています。
そして、薩摩の大久保利通らと将軍・徳川慶喜を排除する計画を立てます。
こうして1867年に王政復古の大号令が発表され、岩倉具視は新政府最初の官職・三職のひとつ参与(さんよ)となりました。
明治政府では、外務省の長官と内大臣を兼務、欧米との条約改正のため、岩倉使節団を作りました。
条約改正は成功しませんでしたが、日本の遅れを知ることとなり、留学なども含め、視察に重点が置かれるようになります。
このとき政府(留守政府という)を預かっていた西郷隆盛らが、朝鮮への開国をせまる「征韓論」を主張します。
岩倉は帰国後、征韓論への反対の立場をとり、西郷と対立、自らがトップである太政大臣の代理となり、征韓論を退けました。
その後も政府の中心として活躍、国会の早期解説を目指した大隈重信を罷免しています(明治十四年の政変)。
そして59歳でがんにより亡くなりました。日本で初めてがんを宣告された人物ともいわれています。
死後は、500円札に肖像が使用されました。俳優・歌手の加山雄三は、岩倉の玄孫(やしゃご・ひ孫の子)にあたります。
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