カテゴリー: 覚えておきたい天皇・上皇


後醍醐天皇とはー中学生が覚えておきたい天皇・上皇11


後醍醐天皇

後醍醐天皇

 

ごだいごてんのう

1288年~1339年

建武の新政

 

教科書では、足利尊氏らの協力を得て鎌倉幕府を倒し、建武の新政を行うなど多くの記述がされています。

 

後醍醐天皇は当時としては遅い、30代で天皇になりました。最初は父親の後宇多上皇が院政を行っていました。

その後自ら政治を行うため、上皇の院政を停止、さらに幕府を倒そうとしますが、計画はばれてしまいました(正中の変)。

このとき後醍醐天皇は処分されず、さらに再度幕府を倒そうとしますが、また失敗しました(元弘の変)。

このときは承久の乱の後鳥羽上皇のように、隠岐に流され、後醍醐天皇は天皇ではなくなりました。

 

後醍醐天皇の皇子である護良親王楠木正成は後醍醐天皇に味方し、幕府を倒す活動を行っていました。

さらに鎌倉幕府の有力御家人だった足利尊氏も後醍醐天皇側につき、六波羅探題を攻略します。

そして足利尊氏のライバル的存在であった新田義貞が鎌倉を攻め、北条氏を倒し、幕府は滅亡しました。

 

後醍醐天皇は京に戻り、建武の新政を行い、武士の政治ではなく貴族を重視する政策を行っていきます。

しかし、増税による大内裏造営計画などの政策は反対を招きます。

二条河原には、建武の新政を批判した長詩まで掲げられました。

足利尊氏は武士の政治復活のため、反乱をおこし、湊川の戦いで楠木正成、新田義貞に勝利します。

 

足利尊氏は京都に新しく光明天皇を立て(北朝)、建武式目という施政方針を定め、室町幕府を開きます。

これに対し、後醍醐天皇は吉野に皇居をうつします(南朝)。

こうして、2つの朝廷が存在することになりました(南北朝時代)。

ただこの南北朝の動乱は後醍醐天皇の南朝側の不振状態が続き、そのさなか病気で亡くなりました。

「ガンダーラ」「モンキー・マジック」「銀河鉄道999」で知られるバンド、ゴダイゴは後醍醐天皇がその名の由来です。

 

 

中学生が覚えておきたい天皇・上皇一覧

 

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プロフィール

管理者:DN

愛知県豊橋市三本木町の某個別指導塾・塾長です。

愛知県田原市生まれ、豊橋市育ち。

文学部史学科卒のため、歴史ネタが多くなります。

主に小中学生に指導もしています。

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