カテゴリー: 知っておきたい歴史事件
五・一五事件をわかりやすくー5月15日の犬養毅暗殺事件
五・一五事件
1932年5月15日
教科書では、海軍の青年将校などが、
犬養毅首相を暗殺した事件とあります。
五・一五事件のきっかけは、日本がロンドン海軍軍縮条約を結んだことにあります。
この条約により、主力艦建造停止が延長され、英・米・日の補助艦総保有量は10:10:7となりました。
この条約に不満を持った海軍の青年将校は、陸軍士官学校の生徒と、愛郷塾の塾生を仲間にし、クーデタは実行されました。
愛郷塾(あいきょうじゅく)とは、昭和恐慌で農業恐慌がおこり農家は貧困となり、これに対し農業再建を目指した集団です。
主要メンバーのチームは、まず首相官邸を襲撃、当時の首相・犬養毅(いぬかいつよし)を射殺しました。
その後、彼らは警視庁、日本銀行も襲っています。
他のチームも、内大臣官邸や、三菱銀行、変電所などを襲いましたが、被害はそれほど大きなものではありませんでした。
死亡者は犬養毅以外では、警察官が1名死亡しました。その後、事件をおこしたメンバーは自首しています。
のちに裁判が行われ、中心人物は最初死刑が求刑されましたが、結局禁固10年~15年、その他参加者は禁固4年でした。
このように軽い罪になったのは、海軍兵学校の学生や卒業生が助命運動をし、嘆願書を出したためです。
ただこの判決がのちの二・二六事件につながったとも考えられています。
ちなみにロンドン海軍軍縮条約を結んだのは、犬養毅ではなく、前の総理・若槻礼次郎(わかつきれいじろう)です。
しかし若槻内閣は選挙で大敗し、次の首相となった犬養毅が襲撃されることとなってしまいました。
犬養毅は襲撃された際、青年将校らに何度も「話せばわかる」と言ったことがよく知られています。
この事件ののち、陸軍の強い反対もあり、政党内閣は犬養内閣が最後となりました。
軍部と政党の摩擦を避けるため、元海軍大将で穏健で知られる斉藤実(まこと)を総理としました。
斉藤は政党からも閣僚を出させ、その斉藤内閣は挙国一致内閣(きょこくいっちないかく)といわれました。
スポンサーリンク
二・二六事件をわかりやすく
2018年6月25日
知っておきたい歴史事件
No Comments
w.sanbongi
二・二六事件
1936年2月26日
教科書では、陸軍の青年将校が大臣などを殺傷し、
東京の中心部を占拠した事件とあります。
二・二六事件は、陸軍の皇道派青年将校が中心となっておこしたクーデタです。彼らは反乱軍と規定されます。
皇道派とは、荒木貞夫や真崎甚三郎(まさきじんざぶろう)を首領とした、国家革新を唱える陸軍の派閥です。
これに対し、軍部内の統制強化を主とし、永田鉄山(ながたてつざん)や東条英機らが中心の派閥を統制派といいます。
1935年には、皇道派の相沢三郎中佐が、永田鉄山を斬殺する事件も起こっています。
1936年・当時の首相は、五・一五事件後首相となった斉藤実のあとを継いだ、元海軍大将の岡田啓介でした。
反乱軍はこの岡田啓介を対象として首相官邸を襲撃しましたが、岡田啓介は奇跡的に助かりました。
前首相でこのとき内大臣だった斉藤実、首相経験もあった当時の大蔵大臣・高橋是清は、この事件で殺害されました。
陸軍大将で、当時陸軍教育総監だった渡辺錠太郎(じょうたろう)も、殺害されています。
海軍大将で、のちの第二次世界大戦時の首相にもなる鈴木貫太郎は、このとき重傷を負っています。
他にも、警視庁、朝日新聞社などが襲撃されました。
そして非常事態時に天皇大権で軍隊に治安維持の権限を与える、戒厳令(かいげんれい)が出され、戒厳司令部が設置されます。
こうして初めは蹶起部隊(けっきぶたい)と規定された反乱軍は、2月28日に鎮圧されました。
この事件によって、皇道派は一掃され、東条英機を中心とする統制派は、政治的な発言力をますます強めました。
岡田内閣は総辞職し、広田弘毅(こうき)を首相とする広田内閣が組閣されました。
なお、事件の首謀者たちは、そのとき自ら命を絶ったか、のちに死刑となっています。
国家主義者の北一輝(いつき)や西田税(みつぐ)も、青年将校に大きな影響を与えた人物として、死刑となりました。
皇道派の首領で、この事件の黒幕とされた真崎甚三郎は、無罪でした。
スポンサーリンク