カテゴリー: 知っておきたい歴史事件
大逆事件をわかりやすく
大逆事件
1910年
教科書では、欄外で紹介されています。
大逆事件(たいぎゃくじけん)は、明治天皇暗殺を計画したとされる社会主義者が、逮捕、処刑された事件です。
大逆とは「大逆罪(だいぎゃくざい・たいぎゃくざい)」のことで、日本の皇族に対し危害を加える犯罪のことです。
大日本帝国憲法は、天皇中心の憲法であったため、これは非常に大きな罪とされました。
当時の日本は、資本主義が発展し、労働者は厳しい労働を強いられていました。
これに対し、労働組合の結成など、労働を改善する運動が起こり、それにともない社会主義の考えも発展してきました。
1901年には、片山潜(せん)、幸徳秋水(こうとくしゅうすい)らが日本最初の社会主義政党・社会民主党を結党しています。
1903年には、幸徳秋水、堺利彦らが平民社を結成、その機関紙『平民新聞』で、日露戦争反対などを展開しました。
しかし、明治政府は彼らを弾圧し、解散させました。幸徳秋水は、アメリカに渡り、帰国後、無政府主義を唱えました。
無政府主義とは、アナーキズムとも言われ、資本主義・国家などのいっさいの権力を否定する考えです。
そして1910年、社会主義者は無政府主義を唱える人たちの明治天皇暗殺計画を理由に、逮捕されてしまいます。
翌年には全員有罪となり、幸徳秋水ら12名は死刑となりました。
このとき『不如帰(ほととぎす)』で知られる徳富蘆花(とくとみろか)は、秋水の死刑を阻止しようとしました。
兄で平民主義を唱えた徳富蘇峰(とくとみそほう)を通じて首相に願い出て阻止を試みましたが、死刑は実行されてしまいます。
こののち、徳富蘆花は「謀叛論」で大逆事件を批判し、騒動となっています。
なお、実際に明治天皇暗殺計画を企てたのは5名で、この中に幸徳秋水は入っていませんでした。
これ以降、社会主義運動は不振となり、「冬の時代」と呼ばれます。
なお平民社を幸徳秋水と結成した堺利彦は死刑をまぬがれ、雑誌の編集・発行の会社で「冬の時代」をしのいでいます。
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柳条湖事件をわかりやすくー満州事変のきっかけ・関東軍の謀略
2018年6月11日
知っておきたい歴史事件
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w.sanbongi
柳条湖事件
1931年9月18日
教科書では、満州事変のきっかけとなった
事件として、紹介されています。
柳条湖事件とは、南満州鉄道が爆破された事件です。
その事件名は、発生した満州の奉天(ほうてん)郊外の柳条湖(りゅうじょうこ)からきています。
当時は誤って柳条溝と伝えられました。これはわざとそう伝えられたとも言われています。
またこの爆破は、実際はごく小規模の爆破に過ぎなかったとも言われています。爆破直後も、列車は普通に走っていました。
実際は中国の旅順(りょじゅん)に司令部を置いた、日本の関東軍が満州を占領するために自ら起こした事件です。
日本では、太平洋戦争が終わるまで、抗日運動を行った張学良らにより、行われた事件だと伝えられていました。
張学良(ちょうがくりょう)は、関東軍の謀略により爆殺された満州軍閥の張作霖(ちょうさくりん)の息子です。
柳条湖事件が起こった場所は、張作霖爆殺事件とは、わずか数キロしか離れていませんでした。
この事件を中国軍のしわざだと主張した関東軍は、報復のための軍事行動を開始し、満州事変へとつながっていきます。
柳条湖事件を考えたのは、関東軍の参謀であった板垣征四郎(せいしろう)と石原莞爾(かんじ)です。
石原莞爾は、日米決戦を想定した『世界最終戦論』などを唱えた思想家でもあり、「帝国陸軍の異端児」と言われました。
石原は、占領地での徴税や物資の供給で軍を作る方法を唱え、満州の占領が日本国内の問題を解決できると、考えていました。
この事件に対し、中国の張学良は、無抵抗主義をとり、戦争を回避しようとしています。
当時の中国のリーダー・蔣介石も戦争を回避しようとし国際連盟に訴えますが、連盟は当初これといった対応をしませんでした。
日本政府も戦争を拡大させないという声明を出しましたが、関東軍はこれを無視し、武力で占領地域を拡大していきました。
日本国民は、この事態に関東軍の行動を支持したと言われ、のちに報道の在り方を問われる事件でもありました。
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