カテゴリー: 知っておきたい歴史事件
フェートン号事件をわかりやすくー歴史で中学生が知っておきたい事件
フェートン号事件
1808年
教科書では、19世紀に日本に外国船が出現するようになり、
イギリスの軍艦が長崎の港に侵入する事件が起きたとあります。
フェートン号事件とは、イギリスの軍艦フェートン号が、オランダ船を捕獲するため、長崎港に侵入した事件です。
このときフェートン号は、オランダ国旗を掲げて侵入しました。
オランダ船と勘違いした出島のオランダ商館の人は、これを出迎えます。
しかし、拉致されてしまい、フェートン号に連れていかれてしまいました。
長崎奉行・松平康英(やすひで)は、オランダ商館の人たちと、人質を穏便に返してもらう交渉をする約束をします。
そのような約束しながらも一方では、フェートン号を抑えようと行動します。
しかし、鎖国の続いた影響で兵力は少なく、すぐに対応できませんでした。
フェートン号側は、人質を返す代わりに、薪、水、食料を要求、松平康英はこれに応じました。
ただ、すぐには応じず、時間稼ぎをしながら、松平康英は援軍を依頼し、フェートン号を抑えようと計画します。
しかし増援は間に合わず、フェートン号は長崎を退去しました。
そもそもの原因は、ナポレオン戦争で、フランスとイギリスが対立したことにあります。
オランダはフランスの属国となり、オランダの統領ウィレム5世は、イギリスに亡命していました。
イギリスはフランスの属国となったオランダ船(つまりはフランス船?)を追って、日本まできました。
結果的には、フェートン号事件による被害は、日本、オランダともにありませんでした。
しかし日本にとってはプライドを傷付けられる事件となりました。
松平康英はこの事態の責任を取り、自殺しています。
そして、このフェートン号事件後、イギリスは日本に対し、通商要求などをしてきます。
これに対応するために、清・オランダ船以外は撃退するという、異国船打払令が作られることになります。
スポンサーリンク
モリソン号事件をわかりやすくー歴史で中学生が知っておきたい事件
2018年3月26日
社会, 知っておきたい歴史事件
No Comments
w.sanbongi
モリソン号事件
1837年
教科書では、通商を求めたアメリカの商館を、
異国船打払令により砲撃した事件と紹介されています。
モリソン号事件は、日本船が嵐にあい漂流、これを外国船が助けたことがきっかけです。
漂流した日本人・岩吉、久吉、音吉、庄蔵(しょうぞう)、寿三郎、熊太郎、力松の7名はマカオに送られます。
これに対し、アメリカ商社は、漂流した日本人返還と引きかえに、日本との通商交渉並びに日本での布教を試みました。
アメリカ船モリソン号は、相模の浦賀で交渉しようとしますが、日本は異国船打払令に基づき、これを砲撃、撃退しました。
その後、モリソン号は、薩摩の山川に行きますが、薩摩藩もこれを拒否し、薪水、食料を与えられてマカオに帰りました。
このとき薩摩藩は、威嚇(いかく)でモリソン号を砲撃しています。
ちなみに、このときモリソン号は武装していませんでした。
江戸幕府は、モリソン号が来た理由を知らず、翌年オランダ商館の報告により、初めて知ることとなりました。
モリソン号事件自体は、上記の通りですが、モリソン号事件は「蛮社の獄」という出来事とセットで覚えます。
三河田原藩の蘭学者・渡辺崋山(わたなべかざん)は『慎機論(しんきろん)』で、モリソン号事件を批判しました。
しかし、この『慎機論』は世には出ませんでした。
また、蘭学者・高野長英(たかのちょうえい)も『戊戌夢物語(ぼじゅつゆめものがたり)』でモリソン号事件を批判します。
これは写本は広まり、反響を呼ぶこととなります。高野長英は『戊戌夢物語』を匿名で出しています。
渡辺崋山の『慎機論』は世には出ませんでしたが、後に原稿が見つかってしまいます。
こののち『戊戌夢物語』は、老中・水野忠邦にも知られることとなり、その作者探しが行われることとなりました。
最初、渡辺崋山と高野長英は、密貿易のための小笠原島(無人島)渡航計画などを理由に逮捕されます。
これは無実が判明しますが、モリソン号事件批判に罪状を切り替えられ、結果、処罰されることとなりました。
これら一連の事件を「蛮社の獄(ばんしゃのごく)」といいます(教科書にも言葉はでてきます)。
スポンサーリンク