保元の乱をわかりやすくー崇徳上皇VS後白河天皇


保元の乱

保元の乱

 

ほうげんのらん

平安時代

1156年

 

保元の乱は、天皇家と摂関家のそれぞれの家での兄弟の対立が原因で、源氏や平氏もそれぞれにわかれて戦いました。

 

天皇家では、院政を行っていた鳥羽法皇が、崇徳天皇を退位させ、近衛天皇を即位させました。

近衛天皇は皇太子としてではなく、皇太弟として天皇に即位、よって崇徳天皇は上皇となっても院政が行えませんでした。

しかし早くして近衛天皇は亡くなり、崇徳上皇は自らの子供を天皇にしようとします。

だが結局、鳥羽法皇がかわいがっていた孫で養子にしていた守仁親王を天皇にしようとしました。

ただまだ幼かったため、守仁親王の実の親で、崇徳上皇にとっては弟にあたる後白河天皇が急遽、天皇となりました。

一方、摂関家では、関白の藤原忠通に後継ぎが生まれなかったため、弟の藤原頼長を養子としました。

しかしその後、忠通に男の子が生まれたため、自分の子を後継ぎにしようとした忠通と頼長は対立することになりました。

 

そして、鳥羽法皇が亡くなると、崇徳上皇が兵を挙げようとしているといううわさが流れます。

これは後白河天皇側にいた藤原忠通らが、画策したものとも考えられています。

こうして対立していた藤原頼長は、崇徳上皇側につくことになり、武士では、源為義・為朝親子、平忠正が上皇側につきました。

これに対し、源為朝の子・源義朝や平忠正のおいである平清盛は、後白河天皇側についています。

このように源氏・平氏が分かれたのは、当時まだ武士の身分は低く、使えていた人物がそれぞれ違ったためです。

 

結果は、後白河天皇側が勝利し、藤原頼長は重傷を負ったことが原因で死亡、崇徳上皇は隠岐に流されました。

敗者の武士に対しては、数百年ぶりに死刑が実行されました。このことは当時の人々に衝撃を与えたといわれています。

保元の乱での武士の活躍によって、武士は政治の上で大きな力を持つようになっていきます。

なお、藤原忠通はその後後白河天皇の側近・藤原通憲(信西)と対立し、失脚。摂関家は力を失いました。

 

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プロフィール

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愛知県豊橋市三本木町の某個別指導塾・塾長です。

愛知県田原市生まれ、豊橋市育ち。

文学部史学科卒のため、歴史ネタが多くなります。

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