薩摩藩をわかりやすくー島津氏・琉球征服


薩摩藩

薩摩藩

 

さつまはん

江戸時代

教科書では、琉球との関連で登場します。

 

薩摩藩は、薩摩・大隅の2国を領有する藩で、外様大名の中では、前田氏の加賀藩に次ぐ大藩です。

藩主は、守護大名として薩摩を治めていた島津氏で、関ヶ原の戦いでは、毛利輝元・石田三成の西軍についています。

しかし徳川家康よりそのまま統治することを許され、鬼島津で知られる島津義弘の子・島津家久が初代当主となりました。

 

島津家久(いえひさ)は、1609年に琉球王国を攻め服属させています(琉球征服)。

これにより奄美大島を薩摩が直接支配することとなり、奄美の砂糖は、薩摩に大きな利益を生み出しました。

また琉球王国は薩摩が管理する形となり、琉球王国を窓口に中国との貿易がさかんになりました。

琉球国王は、徳川将軍や琉球国王の代がわりごとに、薩摩藩監督のもと、慶賀使琉球使節)を江戸に送りました。

 

しかし、台風や火山噴火などの災害に加え、幕府による締め付けで、薩摩藩の財政はつねに厳しいものでした。

1800年代には、調所広郷(ずしょひろさと)が藩の借金整理や、砂糖の専売、琉球貿易で藩の財政を再建しています。

幕末には、長州・土佐・肥前・芸州・越前・水戸などともに雄藩(ゆうはん・勢力の雄大な藩)と言われました。

第11代藩主・島津斉彬(なりあきら)は、磯ノ浜に集成館と呼ばれる洋式工場群を作りました。

また、養女の篤姫を第13代将軍・徳川家定の嫁に入れるなど、中央政界でも活躍しています。

 

斉彬死後は、斉彬の弟で、第12代当主・島津忠義(ただよし)の父・島津久光(ひさみつ)が「国父」として実権を握りました。

久光は公武合体の中心となり、一橋慶喜を将軍後見職、松平春嶽を政事総裁職にするなどの文久の改革を推進しました。

このころ、下級武士であった西郷隆盛大久保利通が藩において大きな力を持つようになり、幕府打倒の中心となりました。

明治時代には、長州藩とともに藩閥政治の中心となり、薩摩閥とも言われました。

そして廃藩置県において、薩摩藩は鹿児島県になっています。

 

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プロフィール

管理者:DN

愛知県豊橋市三本木町の某個別指導塾・塾長です。

愛知県田原市生まれ、豊橋市育ち。

文学部史学科卒のため、歴史ネタが多くなります。

主に小中学生に指導もしています。

東三河の方で、教室に興味のある方はこちらのお問い合わせフォームより、お問い合わせください。塾ではない形で指導を希望される方も、一度ご相談ください。あなたから新しい指導の形が見つかるかもしれません。

 

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