神仏習合とはー歴史で中学生が太字ではないけど知っておきたい用語


神仏習合

神仏習合

 

しんぶつしゅうごう

鎌倉時代

 

 

教科書では、神への信仰を仏教に取り込んだ考えが広がっていく中、新たに神道も形成されていったとあります。

 

日本はもともと神を信仰する国でした。そこに仏教が伝来してきますが、仏もまた神として受け入れられました。

奈良時代には、神社の境内などに付属として寺院を建て、神前に経を読んだり、神体の仏像をまつったりしました。

これは神宮寺(じんぐうじ)といわれます。

伊勢の多度神社(たどじんじゃ)、越前の気比神宮(けびじんぐう)、常陸の鹿島神宮などが有名です。

お寺側も、延暦寺は日吉大社、金剛峯寺は丹生神社、教王護国寺は伏見稲荷大社を守護神としています。

この流れが神仏習合の起こりとされていますが、このころはまだ神と仏は別のものと認識されていました。

 

10世紀ごろになると、神は仏が仮に形を変えてこの世にあらわれたもの、と考えるようになります。

この考えを本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)といいます。それぞれの神に仏を特定し、想定するようになります。

例えば、天照大神(アマテラスオオミカミ)は、大日如来(だいにちにょらい)の化身と考えられました。

このように仏が神となって姿を現したものを、権現(ごんげん)といいます。

教科書にも写真が載っていますが、熊野三山と呼ばれる神社が神仏習合の影響を受けた神社として知られています。

戦国時代の有名武将も神仏習合の考えから、戦いの前には神仏に祈願を行っています。

 

神仏習合は、明治まで続きますが、明治元年に神仏分離令神仏判然令)が出されます。

これにより、神と仏、神道と仏教、神社とお寺ははっきり区別するようになりました。

これは政府による王政復古など考えから神道国教化をはかったものであり、仏教を排除するためのものではありませんでした。

しかし、神仏分離令により、廃仏運動がおこり、仏教界は大きな打撃を受けます。

これを廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)といいます。

 

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プロフィール

管理者:DN

愛知県豊橋市三本木町の某個別指導塾・塾長です。

愛知県田原市生まれ、豊橋市育ち。

文学部史学科卒のため、歴史ネタが多くなります。

主に小中学生に指導もしています。

東三河の方で、教室に興味のある方はこちらのお問い合わせフォームより、お問い合わせください。塾ではない形で指導を希望される方も、一度ご相談ください。あなたから新しい指導の形が見つかるかもしれません。

 

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