対馬藩をわかりやすくー朝鮮との交易に活躍


対馬藩

対馬藩

 

つしまはん

江戸時代

教科書では、日本と朝鮮との間の国交を回復させた藩と説明されています。

 

対馬藩は、主に今の長崎県に属する島・対馬を主として治めていた藩です。

この地を代々治めていた宗氏(そうし)が、そのまま藩主となりました。

 

戦国時代には、九州本土へ進出しようとしますが失敗、豊臣秀吉の九州征伐の際には、秀吉に従い、本領を安堵されました。

そのときの当主・宗義智(そうよしとし)は、秀吉の部下でキリシタン大名として有名な小西行長の長女を妻としています。

そして小西行長とともに朝鮮との交渉を行いますが、失敗しました。

これにより起こった文禄の役では、小西行長軍の主力として、日本軍の先鋒となり活躍しています。

秀吉死後起こった関ヶ原の戦いでは、石田三成側の西軍として参加しました。

この戦いの主犯として処刑された小西行長を義父に持つ立場にありながら、罪には問われず、領土は安堵されました。

これは、当時徳川家康が、秀吉の朝鮮出兵により悪化していた朝鮮との関係を、早期に修復することを望んでいたためです。

 

こうして宗義智は対馬藩の初代藩主となり、実際に朝鮮との和平条約を締結させています。

この功績を徳川家康から認められ、対馬藩は独立して、朝鮮との貿易することが許されました。

大阪の陣、島原・天草一揆にも幕府側として、参加しました。

その後も対馬藩は、将軍の代がわりを祝う使節・朝鮮通信使を迎えるなど、日朝外交の大事な役割を果たしていきます。

朝鮮通信使の中には、学者や芸術家もおり、文化交流なども行われました。

釜山(ぷさん)に設けられた倭館で、朝鮮との貿易を行いました。木綿や朝鮮人参、絹織物を輸入、銀や銅を輸出しています。

 

幕末には、ロシアの軍艦・ポサドニック号が対馬にとどまり、土地を貸すよう要求してきました。

しかし島民の抵抗やイギリスの干渉により退去、植民地化の危険を逃れています(対馬占拠事件)。

その後、明治時代に入り版籍奉還・廃藩置県により、対馬藩はなくなりました。

 

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プロフィール

管理者:DN

愛知県豊橋市三本木町の某個別指導塾・塾長です。

愛知県田原市生まれ、豊橋市育ち。

文学部史学科卒のため、歴史ネタが多くなります。

主に小中学生に指導もしています。

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