渡辺崋山とはー慎機論・蛮社の獄


渡辺崋山

渡辺崋山

 

わたなべかざん

1793年~1841年

 

 

教科書では、外国船の打ちはらいを批判する書物を書いたため、幕府から厳しい処罰を受けた人物と紹介されています。

渡辺崋山は、三河田原藩(今の愛知県田原市)の年寄役で、蘭学者・画家でもあります。

父は田原藩士でしたが、収入が少なく、小さい頃の暮らしは非常に貧しかったと言われています。

そのため自らが描いた絵を売って、生活費の足しにしていました。

その後、文人画南画)などで有名な谷文晁(ぶんちょう)に学び、20代半ばには画家として生活できるようになっていました。

特に肖像画が人気で洋画的手法で描かれた『鷹見泉石像』や、当時の庶民の姿を描いた『一掃百態』がよく知られています。

 

父の死後はその後を継ぎ、田原藩士として働き、家老職にあたる田原藩の年寄役にまでなりました。

当時田原藩は財政難に苦しんでいましたが、その改革に取り組んでいます。

天保の飢饉の際にも、倹約を徹底していたため、財政難でありながら藩からは餓死する人が一人もでませんでした。

 

知識人の集まりである尚歯会(しょうしかい)に参加、ここで蘭学者の高野長英らと交流しました。

1837年にモリソン号事件が起き、渡辺崋山はこれを批判する『慎機論(しんきろん)』を書きました。

しかし、田原藩の年寄役でもあった崋山は、高野長英の『戊戌夢物語』のような幕府を批判するようなことは書けませんでした。

よって『慎機論』は世には出ませんでしたが、蛮社の獄における家宅捜索で『慎機論』が発見されてしまいます。

これによって崋山は、田原において、永蟄居(えいちっきょ)の処罰を受けました。

永蟄居とは、江戸時代の武士の刑罰で、一生謹慎し、外出を禁じるとういう重いものです。

 

こうして生活は再び貧しくなり、絵を売って生活費の足しにしようとしました。

しかしこのことが幕府で問題になっているという、うわさがたちます。

これを聞いた崋山は、田原藩に迷惑をかけてはいけないという思いから、自ら命を絶ちました。

 

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プロフィール

管理者:DN

愛知県豊橋市三本木町の某個別指導塾・塾長です。

愛知県田原市生まれ、豊橋市育ち。

文学部史学科卒のため、歴史ネタが多くなります。

主に小中学生に指導もしています。

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