足利義昭とはー室町幕府最後の将軍


足利義昭

足利義昭

 

あしかがよしあき

1537年~1597年

教科書は太字ではない

 

中学の教科書では、織田信長によって第15代将軍となり、その後京都から追放されたとあります。

 

足利義昭は、室町幕府第15代将軍で、室町幕府最後の将軍になります。

父は第12代将軍・足利義晴(よしはる)で、兄は第13代将軍・足利義輝(よしてる)です。

兄・義輝が松永久秀(ひさひで)らに襲われ亡くなったため、足利義昭は室町幕府の再興をしようとしました。

多くの大名に働きかけますが、味方の裏切りに会うなどして、うまくいきませんでした。

 

その後、越前の戦国大名朝倉氏を頼り、その家臣だった明智光秀の紹介により、織田信長を頼りました。

さらに近江の戦国大名で、信長の義理の弟である浅井長政を味方につけます。

そして織田軍と浅井軍を従えて京都に入り、第15代将軍の座につきました(第14代将軍はその前に病気で死亡)。

これにより、足利義昭と織田信長による統治が始まります。

義昭は信長を父と呼び、室町幕府のナンバー2の立場にある管領にしようとしますが、信長はこれを受け入れませんでした。

もともと信長は室町幕府の再興を望んでいたわけではなく、2人の関係は悪化していきました。

信長は義昭が将軍として権力を持ちすぎないようにし、さらに意見書をだして、義昭を批判しました。

これに対し義昭は全国の有力大名に信長を討つよう手紙を出して、信長を包囲しようとしました(信長包囲網)。

2人は京都で対立しますが、義昭は敗れ、京都を追放、ここに室町幕府は滅びました(室町幕府滅亡)。

 

足利義昭はその後も、信長に対抗しようとしますが、信長は本能寺の変で亡くなり、豊臣秀吉の時代になりました。

そのとき秀吉と争っていた島津氏に秀吉に従うよう働きかけ、義昭自身そののち京都に戻り、秀吉に従いました。

秀吉の時代には領地を与えらえ、前将軍ということもあり、大大名以上の扱いを受けました。

秀吉の朝鮮出兵に際には、肥前名護屋(佐賀県)まで軍を率いています。1597年に61歳で亡くなりました。

 

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プロフィール

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愛知県豊橋市三本木町の某個別指導塾・塾長です。

愛知県田原市生まれ、豊橋市育ち。

文学部史学科卒のため、歴史ネタが多くなります。

主に小中学生に指導もしています。

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