カテゴリー: 教科書に出てくる『西郷どん』の登場人物
島津斉彬とはー公武合体・一橋派・幕末の四賢侯
島津斉彬
しまづなりあきら
1809年~1858年
演:渡辺謙
島津斉彬は、薩摩藩の第11代藩主です。
福井藩主・松平慶永(春嶽)、土佐藩主・山内豊信(容堂)、宇和島藩主・伊達宗城とともに幕末の四賢侯と呼ばれています。
島津氏はかつての守護大名で、戦国時代には九州南部を支配した戦国大名です。
豊臣秀吉と対立しますが、その後服従し、そのまま九州南部を支配しました。
関ヶ原の戦いでは西軍につき、島津義弘(よしひろ)が最後まで善戦したことが知られています。
江戸時代もそのまま支配を認められ、70万石以上の大大名として存在していました。
第10代藩主の島津斉興(なりおき)は、側室お由羅の方との子ども・島津久光(ひさみつ)を次の藩主にしようとしました。
これに老中・阿部正弘や松平慶永(よしなが)、伊達宗城(むねなり)が間に入り事態を治め、斉彬が第11代藩主となりました。
斉彬は中央政界でも活躍、黒船来航に危機を感じ、朝廷(公)と幕府(武)で政治を進める公武合体を主張しました。
江戸幕府第13代将軍・徳川家定(いえさだ)の将軍継嗣問題では、一橋家の一橋慶喜を次の将軍推しました(一橋派)。
そのため養子の篤姫(あつひめ)を家定の妻にしたり、朝廷に慶喜を次の将軍にするよう働きかけたりしています。
しかし紀伊藩の徳川慶福(よしとみ)を推す南紀派の井伊直弼が大老に就任、その権力で慶福(家茂)を将軍にしました。
斉彬は鹿児島磯ノ浜に反射炉・造兵工場・ガラス製造工場を設けています。これらを集成館と名付けました。
また渡米経験のあるジョン万次郎を保護し、造船法を藩士に学ばせ、西洋式軍艦の建造もしています。
有能な下級武士を採用し、西郷隆盛、大久保利通を世に出しています。西郷隆盛らも、斉彬を強く慕っていたと言われています。
井伊直弼に抗議するため、京都に軍を出そうとしますが、その前に亡くなってしまいました。
死因は、コレラによるものや、毒殺されたなどさまざまな意見があります。
写真に興味を持ち、最も早く写真撮影をされた大名とも言われています。
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井伊直弼とはー大老・安政の大獄・桜田門外の変
2018年5月2日
教科書に出てくる『西郷どん』の登場人物
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w.sanbongi
井伊直弼
いいなおすけ
1815年~1860年
演:佐野四郎
井伊直弼は、彦根藩の藩主で、江戸幕府の大老になります。
井伊氏は、遠江(静岡県)井伊谷(いいのや)にいた一族で、戦国時代には今川氏の支配下にありました。
その後一族の多くの人が亡くなり、井伊直虎(なおとら)がおんな城主として、後を継いでいます。
一族の生き残りのひとり、井伊直政(なおまさ)は徳川家康に仕え活躍、徳川四天王のひとりに数えられるまでになります。
その功績で関ヶ原の戦い後は、近江に領地を与えられ、その子・井伊直孝(なおたか)のころには、30万石の大名となります。
井伊直弼は、藩主の14男と後継ぎには程遠く、埋木舎(うもれぎのや)と呼ばれるところで、茶道を学んでいました。
そこで『茶湯一会集(ちゃのゆいちえしゅう)』を書きます。
その中で千利休の言葉「一期一会(いちごいちえ)」を使ったことで、この四字熟語が広まったと言われています。
しかし、兄の藩主の子が亡くなったため、後継ぎとなり、兄の死後、彦根藩主となりました。
その後、井伊直弼は江戸でも活躍、第13代将軍・徳川家定の将軍継嗣問題では、徳川慶福を推す南紀派の中心となります。
さらに直弼は、臨時に置かれる将軍の補佐役で最高職である大老に就任します。
ちなみに井伊家は江戸幕府で最も大老を出しており、譜代大名の中でも筆頭格の扱いになっていました。
そして、孝明天皇の許可を得ないまま、日米修好通商条約を調印します。また、徳川慶福を第14代将軍・徳川家茂にしました。
この井伊直弼の行動を、一橋慶喜を将軍に推した一橋派の中心だった水戸藩らが非難、孝明天皇に訴えました。
これに対し、直弼は幕府を非難した人たちを捕縛し、処断、一橋慶喜・徳川斉昭・松平慶永らは謹慎処分となりました。
この弾圧(安政の大獄)に怒った一部の過激な水戸藩士が、江戸城に向かう直弼を桜田門外で襲撃します(桜田門外の変)。
直弼は殺され、この事件により江戸幕府の力は失速していくことになります。
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