井伊直弼とはー大老・安政の大獄・桜田門外の変


井伊直弼

井伊直弼

 

いいなおすけ

1815年~1860年

演:佐野四郎

 

井伊直弼は、彦根藩の藩主で、江戸幕府の大老になります。

 

井伊氏は、遠江(静岡県)井伊谷(いいのや)にいた一族で、戦国時代には今川氏の支配下にありました。

その後一族の多くの人が亡くなり、井伊直虎(なおとら)がおんな城主として、後を継いでいます。

一族の生き残りのひとり、井伊直政(なおまさ)は徳川家康に仕え活躍、徳川四天王のひとりに数えられるまでになります。

その功績で関ヶ原の戦い後は、近江に領地を与えられ、その子・井伊直孝(なおたか)のころには、30万石の大名となります。

 

井伊直弼は、藩主の14男と後継ぎには程遠く、埋木舎(うもれぎのや)と呼ばれるところで、茶道を学んでいました。

そこで『茶湯一会集(ちゃのゆいちえしゅう)』を書きます。

その中で千利休の言葉「一期一会(いちごいちえ)」を使ったことで、この四字熟語が広まったと言われています。

しかし、兄の藩主の子が亡くなったため、後継ぎとなり、兄の死後、彦根藩主となりました。

その後、井伊直弼は江戸でも活躍、第13代将軍・徳川家定将軍継嗣問題では、徳川慶福を推す南紀派の中心となります。

さらに直弼は、臨時に置かれる将軍の補佐役で最高職である大老に就任します。

ちなみに井伊家は江戸幕府で最も大老を出しており、譜代大名の中でも筆頭格の扱いになっていました。

そして、孝明天皇の許可を得ないまま、日米修好通商条約を調印します。また、徳川慶福を第14代将軍・徳川家茂にしました。

 

この井伊直弼の行動を、一橋慶喜を将軍に推した一橋派の中心だった水戸藩らが非難、孝明天皇に訴えました。

これに対し、直弼は幕府を非難した人たちを捕縛し、処断、一橋慶喜・徳川斉昭松平慶永らは謹慎処分となりました。

この弾圧(安政の大獄)に怒った一部の過激な水戸藩士が、江戸城に向かう直弼を桜田門外で襲撃します(桜田門外の変)。

直弼は殺され、この事件により江戸幕府の力は失速していくことになります。

 

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プロフィール

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愛知県豊橋市三本木町の某個別指導塾・塾長です。

愛知県田原市生まれ、豊橋市育ち。

文学部史学科卒のため、歴史ネタが多くなります。

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