カテゴリー: 四天王の歴史


徳川四天王とはー四天王の歴史


徳川四天王

 

徳川家康

酒井忠次 本多忠勝 榊原康政 井伊直政

 

 

酒井忠次(さかいただつぐ)は、古くから徳川家康に仕えた人物で、徳川四天王の筆頭とされることが多いです。

家康が小さい時に今川義元の人質になった際も、家康に同行して家康を支えています。

豊臣秀吉の時代には、家康第一の重臣とされ、そのとき最高位の冠位も与えられています。

ただ家康の嫡男であった松平信康の切腹を防げなかったことから、他の四天王と比べてあまりよく描かれないことも多いです。

 

本多忠勝(ほんだただかつ)は、小さいころから徳川家康に仕えており、徳川家随一の猛将とされる人物です。

その勇猛ぶりは、織田信長や豊臣秀吉も称賛していたと言われています。

長篠の戦いなど武田軍との戦いで活躍し、その名が知られるようになりました。

大きな槍(蜻蛉切・とんぼきり・天下三名槍のひとつ)を使ったことで知られ、鹿の角をあしらったかぶとも有名です。

 

榊原康政(さかきばらやすまさ)は、同年齢だった本多忠勝とともに活躍した人物です。

忠勝より武勇は劣るが、指揮能力は優れていたとされ、忠勝との対比から冷静な人物として描かれることが多いです。

徳川家康と豊臣秀吉が戦った小牧・長久手の戦いで活躍、秀吉方の有力武将たちを討ち取っています。

徳川家が関東にうつった際には、忠勝同様、10万石を与えられ、関東総奉行となっています。

 

井伊直政(いいなおまさ)は、徳川四天王の中では最も若いですが、武勇・政治・外交とあらゆる分野で活躍した人物です。

武田家で有名な朱色の軍装を引き継ぎ、のちに「井伊の赤備え」として知られるようになります。

徳川家が関東にうつった際には、徳川家の家臣の中で最高の12万石を与えられています。

関ヶ原の戦いでは、東軍指揮の中心として活躍、関ケ原の戦い最初の戦闘を行った人物としても知られています。

直政死後も、井伊氏は江戸幕府の中心として大老の職に就くなど、幕末まで活躍しています。

 

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上杉四天王とはー四天王の歴史


上杉四天王

 

上杉謙信

宇佐美定満 柿崎景家 直江景綱 甘粕景持

 

宇佐美定満(うさみさだみつ)は、上杉謙信の軍師として知られていますが、あまり詳しいことはわかっていません。

実在はしたが、軍師ではなかったとも、実際、大きな活躍はしていないとも言われています。

江戸時代の軍学者、宇佐美定祐が先祖である宇佐美貞満を、貞行としてその活躍を描いたことで知られるようになります。

舟遊びをしていた際、船が転覆して溺死しました。その理由は、上杉謙信による暗殺ともいわれています。

 

柿崎景家(かきざきかげいえ)は、上杉家髄一の猛将として、知られています。

武田信玄との川中島の戦いでは、武田軍を壊滅にまで追い込む活躍を見せています。

上杉謙信からは、景家に分別があれば、かなうものはいないと評されています。

猪突猛進型の武将として有名ですが、外交面でも活躍、北条氏との同盟時にも、活躍しています。

最後は織田信長との内通を疑われ、上杉謙信に殺されたとされていますが、実際は病死だったといわれています。

 

直江景綱(なおえかげつな)は、代々上杉家に仕えた人物で、内政、外交、軍事とあらゆる方面で、活躍しています。

川中島の戦いでの活躍から、上杉景虎(のちの謙信)の「景」の字をもらいました。

謙信が他国に侵攻した際は、本拠である越後を守るという重要な役割も任されていました。

後継ぎとなる男子がいなかったため、養子が後を継ぎ、その養子の死後、その妻の夫となったのが直江兼続になります。

 

甘粕景持(あまかすかげもち)は、上杉謙信だけでなく、次の上杉家当主・上杉景勝にも使えた武将です。

謙信時代の川中島の戦いでの活躍だけでなく、景勝時代の新発田重家の反乱でも活躍しました。

関ヶ原の戦い後も上杉家に仕え、上杉家が関ケ原の戦いの敗戦により、国替えとなった米沢で亡くなりました。

なお1923年、関東大震災直後に起こった甘粕事件の陸軍軍人・甘粕正彦は甘粕景持の子孫です。

 

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プロフィール

管理者:DN

愛知県豊橋市三本木町の某個別指導塾・塾長です。

愛知県田原市生まれ、豊橋市育ち。

文学部史学科卒のため、歴史ネタが多くなります。

主に小中学生に指導もしています。

東三河の方で、教室に興味のある方はこちらのお問い合わせフォームより、お問い合わせください。塾ではない形で指導を希望される方も、一度ご相談ください。あなたから新しい指導の形が見つかるかもしれません。

 

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