カテゴリー: 四天王の歴史
武田四天王とはー四天王の歴史
武田四天王
武田信玄 武田勝頼
内藤昌豊 馬場信春 山形昌景 高坂昌信
内藤昌豊(ないとうまさとよ)は、武田信玄の弟・武田信繫(のぶしげ)とともに武田氏ナンバー2として、君臨しました。
武田信玄が戦った戦争にはすべて参加し活躍したと言われ、信玄にとって信頼できる重臣でした。
信玄死後は、その子の武田勝頼(かつより)に仕え、長篠の戦いにも参加しています。
そして、このとき、勝頼を逃がすため戦場にとどまり、徳川軍により討たれました。
馬場信春(ばばのぶはる)は、武田信玄の父・武田信虎(のぶとら)の代から仕えた人物です。
数多くの戦いに参加しましたが、傷ひとつ負わなかったことから、「不死身の馬場美濃」などとも言われています。
また多くの城を建築したとされ、築城の名手とも言われています。
勝頼の代になると、勝頼から疎まれるようになっていき、長篠の戦いで戦死しました。
山形昌景(やまがたまさかげ)は、武田信玄の重臣・飯富寅昌(おぶとらまさ)の弟で、兄と共に活躍します。
しかし、寅昌が信玄の子・武田義信(よしのぶ)とともに信玄暗殺を計画したとして殺害され、昌景がその跡を継ぎました。
このとき寅昌の服装を赤で統一した部隊・赤備えも引継ぎ、この部隊は戦国最強の部隊として知られるようになっていきます。
昌景は長篠の戦いで戦死しますが、赤備えは井伊直政や真田幸村(信繁)がその強さにあやかり、取り入れています。
高坂昌信(こうさかまさのぶ)は、武田信玄のライバル・上杉謙信との戦いの最前線の守りを任された人物です。
このため長篠の戦いには参加しておらず、多くの有力武将が長篠の戦いで戦死しましたが、昌信はその後も活躍しています。
武田氏の戦術が書かれた『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』は、昌信が言ったことが書かれたものと言われています。
この『甲陽軍鑑』の存在により、武田氏は戦国最強の軍隊を持った一族として、後世まで語り継がれるようになります。
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織田四天王とはー四天王の歴史
2018年12月30日
四天王の歴史
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w.sanbongi
織田四天王
織田信長
柴田勝家 丹羽長秀 滝川一益 明智光秀
柴田勝家は、織田家の北陸方面の軍司令官を任された人物で、織田家筆頭家老です。織田軍随一の猛将といわれています。
信長の父・織田信秀のころから織田家に仕えており、信秀死後は信長の弟・織田信勝(信行)を後継者にしようとしています。
信長との戦いに敗れた後は信長に仕え、信長が上洛する際には、主力として活躍しています。
信長が本能寺の変で亡くなると、羽柴秀吉と対立、賤ヶ岳の戦いに敗れ、居城・北庄城にて自害しました。
丹羽長秀は、織田家に置いて柴田勝家につぐ家老ナンバー2で、柴田勝家とともに織田家の双璧といわれています。
羽柴秀吉の「羽柴」は「丹羽」と「柴田」から取ったとドラマなどでは描かれることが多いです(事実かは諸説あります)。
軍事面でなく、政治面でも活躍、織田家で一番最初に一国を与えられた人物でもあります。
しかし信長死後は、秀吉を支える道を選び、秀吉が勝家に勝利すると、123万石を与えられ、大大名となりました。
滝川一益(たきがわかずます)は、織田家鉄砲隊を主に率いた人物で、関東方面の軍司令官を任された人物です。
長島一向一揆や長篠の戦いで、鉄砲隊を率い活躍、これにより武田家の領地を与えられています。
本能寺の変後は、柴田勝家に味方します。柴田勝家が敗れた後も奮戦しますが、結局、秀吉に降伏しました。
その後は秀吉に仕えますが、目立った活躍もなく、亡くなっています。
明智光秀は、近畿方面の軍司令官を任された人物で、織田信長を本能寺の変で倒した人物です。
最初は、織田信長と室町幕府15代将軍となる足利義昭の上洛に加わり、両者の家臣という立場でした。
しかし、信長と義昭が対立すると、信長につき、その後は多くの戦いで活躍し、信長からも評価を得て、出世していきます。
信長に中国攻めに苦戦している羽柴秀吉の援軍に向かうよう命を受けますが、本能寺に向かい、信長を倒しています。
本能寺の変後、羽柴秀吉と山崎の戦いで敗れ、自らの城に戻る途中、殺されました。
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