カテゴリー: 社会
長安とはー歴史で中学生が太字ではないけど知っておきたい用語
長安
ちょうあん
飛鳥・奈良時代
教科書では、平城京は唐の都長安にならって造られたとあります。
長安は中国の古都で、現在は西安と呼ばれ、その呼び名は時代によって異なります。
周は豊邑(ほうゆう)や鎬京(こうけい)を首都にしていますが、これが現在の西安の西南あたりになります。
その後、漢をつくった劉邦が秦の首都であった咸陽(かんよう)の郊外に新しい首都を造り、これを長安と名付けました。
その後も、北方にできた王朝の首都になっています。
隋の楊堅(ようけん)が長安の郊外に首都を造り、大興城(だいこうじょう)としています。
次の唐の時代に大興城は規模を拡大して、再び長安と呼ばれるようになり、人口100万人といわれる大都市になります。
唐の長安は外側を城壁で囲まれていました。また、城門は夜は閉じられていたようです。
これに対し、長安を参考にして造ったといわれる平城京、平安京には城壁はありません。
外部からも多くの人が訪れ、国際都市として繁栄しました。
シルクロードの中国側の始まりの都市と言われています(洛陽や日本とする説もあります)。
多くの仏教寺院のほかに、キリスト教やゾロアスター教の寺院もあったようです。
ただ、長安は内陸部にあるため、食糧問題に常に悩まされ、河を使って食料を輸送し、対応していました。
しかし、安禄山(あんろくざん)らが起こした安史の乱後、川を使った輸送が難しくなり、貧困に悩まされるようになります。
そして、唐を滅ぼした朱全忠(しゅぜんちゅう)は都を長安には置かず、首都としての役目を終えます。
明の時代に首都に選ばれそうになったときがありますが、結局その後の王朝が長安を首都にすることはありませんでした。
いち地方都市となり、歴史にはあまり出てこなくなりましたが、現在では経済的に発展した都市になっています。
※教科書とは、東京書籍発行の「新しい社会」を指します。
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後醍醐天皇とはー中学生が覚えておきたい天皇・上皇11
2017年12月27日
社会, 覚えておきたい天皇・上皇
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w.sanbongi
後醍醐天皇
ごだいごてんのう
1288年~1339年
建武の新政
教科書では、足利尊氏らの協力を得て鎌倉幕府を倒し、建武の新政を行うなど多くの記述がされています。
後醍醐天皇は当時としては遅い、30代で天皇になりました。最初は父親の後宇多上皇が院政を行っていました。
その後自ら政治を行うため、上皇の院政を停止、さらに幕府を倒そうとしますが、計画はばれてしまいました(正中の変)。
このとき後醍醐天皇は処分されず、さらに再度幕府を倒そうとしますが、また失敗しました(元弘の変)。
このときは承久の乱の後鳥羽上皇のように、隠岐に流され、後醍醐天皇は天皇ではなくなりました。
後醍醐天皇の皇子である護良親王や楠木正成は後醍醐天皇に味方し、幕府を倒す活動を行っていました。
さらに鎌倉幕府の有力御家人だった足利尊氏も後醍醐天皇側につき、六波羅探題を攻略します。
そして足利尊氏のライバル的存在であった新田義貞が鎌倉を攻め、北条氏を倒し、幕府は滅亡しました。
後醍醐天皇は京に戻り、建武の新政を行い、武士の政治ではなく貴族を重視する政策を行っていきます。
しかし、増税による大内裏造営計画などの政策は反対を招きます。
二条河原には、建武の新政を批判した長詩まで掲げられました。
足利尊氏は武士の政治復活のため、反乱をおこし、湊川の戦いで楠木正成、新田義貞に勝利します。
足利尊氏は京都に新しく光明天皇を立て(北朝)、建武式目という施政方針を定め、室町幕府を開きます。
これに対し、後醍醐天皇は吉野に皇居をうつします(南朝)。
こうして、2つの朝廷が存在することになりました(南北朝時代)。
ただこの南北朝の動乱は後醍醐天皇の南朝側の不振状態が続き、そのさなか病気で亡くなりました。
「ガンダーラ」「モンキー・マジック」「銀河鉄道999」で知られるバンド、ゴダイゴは後醍醐天皇がその名の由来です。
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