カテゴリー: 歴史で知っておきたい戦争
加賀の一向一揆をわかりやすくー本願寺蓮如・富樫政親
加賀の一向一揆
かがのいっこういっき
室町時代
1488年~1580年
一向一揆とは、浄土真宗(一向宗)の本願寺派による一揆で、有力武士である国人や農民も参加し、大名と争いました。
織田信長が戦った伊勢長島の一揆や、徳川家康が戦った三河の一向一揆などが有名です。
なかでも特に有名なのが加賀の一向一揆で、中学の教科書にも取り上げられています。高校の教科書では、太字になります。
当時、本願寺派は不振にあえいでいましたが、本願寺第8世・蓮如(れんにょ)がこれを興隆します。
1471年には、越前に念仏を行う場(坊舎)である吉崎御坊(吉崎道場)を建て、一向宗を広めました。
そのときの加賀の守護は富樫氏(とがしし)でしたが、応仁の乱の際、兄弟が東西の軍に分かれ、内紛状態でした。
細川勝元の東軍に味方した富樫政親(まさちか)は、山名宗全の西軍に味方した弟の幸千代に敗れ、当主の座を追われました。
富樫政親はこの状況を打開するため、蓮如に支援を頼みました。
幸千代には、別の一向宗の派が味方していたこともあり、蓮如はこの支援を承諾し、政親は幸千代を討ち、これに勝利しました。
しかしこのとき加賀の民衆がどんどん蓮如を支持することに危機感を覚え、本願寺門徒に対する弾圧を始めます。
その後政親は加賀守護として、第9代将軍・足利義尚の近江六角氏討伐に参加しますが、これには多くの費用を必要としました。
このことに反発した土地の有力武士である国人(こくじん)が、弾圧を受けていた本願寺門徒(一向宗徒)と手を結びます。
そして20万人で居城である高尾城を囲み、政親は自害、こうして国人や一向宗徒により、加賀は支配されるようになります。
1546年には尾山御坊が建設され、ここを拠点に一向一揆は拡大、戦国大名・朝倉氏、上杉謙信、織田信長と対立します。
しかし1580年、織田信長により、一向宗の本寺である石山本願寺が降伏、尾山御坊も織田軍に攻め落とされました。
こうして約100年におよぶ、一向宗徒らによる自治支配は終了します。
尾山御坊跡地には、金沢城がつくられ、のちに加賀藩主・前田氏の居城となっています。
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桶狭間の戦いをわかりやすくー今川義元VS織田信長
2018年11月27日
歴史で知っておきたい戦争
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w.sanbongi
桶狭間の戦い
おけはざまのたたかい
室町時代(戦国時代)
1560年
桶狭間の戦いは、今川義元を織田信長が破った戦いで、信長が勢力を拡大させるきっかけとなった戦いとして知られています。
今川義元は駿河・遠江(静岡県)を支配していた大名で、さらに三河(愛知県)の松平氏をその支配下に置きました。
このとき尾張(愛知県)を支配していたのが織田氏で、尾張・三河辺りをめぐって、争うことになりました。
そして1560年、今川義元は大軍(25,000人?)を率いて、尾張を攻めます。
義元が尾張を攻めた理由は、政権を取るため京都を目指す途中だった説が一般的で、ドラマなどでもそのように描かれています。
しかし、いくら当時3国を治める大大名であったとはいえ、いきなり京都を目指すには無理があるとも現在は考えられています。
なおこの時の松平氏の当主が、松平元康で後の徳川家康になります。このときは、今川軍の先鋒として、参加しています。
このとき織田軍は、3,000人ほどであったと言われており、兵力数に圧倒的差があったため、城にこもる意見もありました。
しかし織田家の当主・織田信長は出撃を選択し、両軍桶狭間で激突します。当初は今川軍が有利に進んでいきました。
織田軍は多くの武将失いますが、13時ごろ、前が見えないほど大雨が降る中、織田信長自ら今川軍本陣に奇襲をかけました。
本陣にいたのは5,000人ほどで兵士数の差は少なくなり、両軍乱戦となりました。
今川義元は逃げる途中に討死、今川軍はその他の多くの有力武将も討死したため、今川軍は駿河に引き返しました。
松平元康もピンチになりますが、何とか岡崎城まで逃げ帰っています。
松平元康はそのまま今川氏から独立し、織田信長と同盟を結びました。三河を統一し、長篠の戦いなどに参加しています。
またのちに徳川家康とともに豊臣政権・五大老の一人となり加賀百万石を築いた前田利家も桶狭間の戦いに参加しています。
このときは信長の部下で謹慎処分中だった利家ですが、勝手に戦いに参加し活躍したと言われています。
今川氏は義元の子・今川氏真が跡を継ぎますが、急速に没落していき、桶狭間の戦いから8年後に滅亡しています。
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