桶狭間の戦いをわかりやすくー今川義元VS織田信長


桶狭間の戦い

桶狭間の戦い

 

おけはざまのたたかい

室町時代(戦国時代)

1560年

 

桶狭間の戦いは、今川義元を織田信長が破った戦いで、信長が勢力を拡大させるきっかけとなった戦いとして知られています。

今川義元は駿河・遠江(静岡県)を支配していた大名で、さらに三河(愛知県)の松平氏をその支配下に置きました。

このとき尾張(愛知県)を支配していたのが織田氏で、尾張・三河辺りをめぐって、争うことになりました。

 

そして1560年、今川義元は大軍(25,000人?)を率いて、尾張を攻めます。

義元が尾張を攻めた理由は、政権を取るため京都を目指す途中だった説が一般的で、ドラマなどでもそのように描かれています。

しかし、いくら当時3国を治める大大名であったとはいえ、いきなり京都を目指すには無理があるとも現在は考えられています。

なおこの時の松平氏の当主が、松平元康で後の徳川家康になります。このときは、今川軍の先鋒として、参加しています。

このとき織田軍は、3,000人ほどであったと言われており、兵力数に圧倒的差があったため、城にこもる意見もありました。

しかし織田家の当主・織田信長は出撃を選択し、両軍桶狭間で激突します。当初は今川軍が有利に進んでいきました。

 

織田軍は多くの武将失いますが、13時ごろ、前が見えないほど大雨が降る中、織田信長自ら今川軍本陣に奇襲をかけました。

本陣にいたのは5,000人ほどで兵士数の差は少なくなり、両軍乱戦となりました。

今川義元は逃げる途中に討死、今川軍はその他の多くの有力武将も討死したため、今川軍は駿河に引き返しました。

松平元康もピンチになりますが、何とか岡崎城まで逃げ帰っています。

 

松平元康はそのまま今川氏から独立し、織田信長と同盟を結びました。三河を統一し、長篠の戦いなどに参加しています。

またのちに徳川家康とともに豊臣政権・五大老の一人となり加賀百万石を築いた前田利家も桶狭間の戦いに参加しています。

このときは信長の部下で謹慎処分中だった利家ですが、勝手に戦いに参加し活躍したと言われています。

今川氏は義元の子・今川氏真が跡を継ぎますが、急速に没落していき、桶狭間の戦いから8年後に滅亡しています。

 

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プロフィール

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愛知県豊橋市三本木町の某個別指導塾・塾長です。

愛知県田原市生まれ、豊橋市育ち。

文学部史学科卒のため、歴史ネタが多くなります。

主に小中学生に指導もしています。

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