カテゴリー: 知っておきたい中国史
隋とはー歴史で中学生が知っておきたい中国史
隋
ずい
ようけん
古墳~飛鳥
隋は日本と関係も深く、教科書でも太字で登場します。
ただ教科書には、強大な帝国を創り上げたとあるだけで、隋自体の具体的な記述はありません。
隋は初代・楊堅(ようけん)のときは、まだ北朝(ほくちょう)の国でした。
そのときの南朝にあった陳(ちん)を滅ぼし、約400年ぶりに中国を統一しました。
都は大興城(だいこうじょう)とし、旧長安の東南に築きました。しかし隋は2代38年と短い政権でした。
ただ次の唐が長きに渡り大帝国としていられたのは、隋がその基盤を作ったからだと考えられています。
楊堅(文帝・ぶんてい)がしたことで最も有名なのは科挙(かきょ)で、今の公務員試験のような制度を取り入れました。
それまでは貴族が役人を選ぶ権利を持っていました。
これを実力主義にすることで、同時に最終的に選ぶ権利を皇帝のものにしました。この制度は1905年まで続きます。
他にも均田制(きんでんせい)や府兵制(ふへいせい)を取り入れたことも、楊堅の功績です。
2代目煬帝(ようだい)は南北に華北と江南を結ぶ大運河(だいうんが)を作ったことで知られています。
また暴君(ぼうくん)としても名が知られています。父・楊堅を殺して、皇帝になったとも言われています。
この煬帝のころが最盛期で、日本が遣隋使(けんずいし)を送ったのもこのころです。
ただ大運河の建設に加えて、全3回行った大規模な高句麗遠征(こうくりえんせい)に失敗します。
それに対する農民の負担が大きかったため反乱がおき、各地で独立勢力が現れます。
そして内戦へと発展、その中の李淵・李世民(りえん・りせいみん)親子が首都・長安を陥落させます。
李淵は煬帝の孫を皇帝に立て、煬帝を表向きは支えていきます。
しかし、煬帝は政治を行おうとしなかったため、身近な家臣にまで裏切られ、結局殺害されてしまいます。
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唐とは―歴史で中学生が知っておきたい中国史
2017年10月21日
社会, 知っておきたい中国史
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w.sanbongi
唐
とう
李淵・李世民
日本:飛鳥~平安
唐も隋同様、日本と関係が深いうえに、約300年も続いた大帝国であることから、教科書の記述も多いです。
白村江の戦いで関係が悪化したときもありましたが、遣唐使は長きに渡り続けられます。
唐の作った法律(律令)を日本も参考にし、大宝律令(たいほうりつりょう)を作ることになります。
唐の建国者は隋の煬帝(ようだい)のいとこである李淵(りえん)です。
唐の基礎を作ったのは、その息子の第2代李世民(太宗)です。
李世民(りせいみん)のころの安定した政治を「貞観の治(じょうがんのち)」と言います。
第3代高宗のとき皇后であった則天武后(そくてんぶこう・武則天とも)が力を持ち、中国史上唯一の女帝になりました。
結果、数年だけ唐ではなくなりますが、則天武后が亡くなると高宗の息子である中宗(ちゅうそう)が即位し再び唐になります。
しかしそのときの皇后であった韋后(いこう)が、則天武后をまねて中宗を暗殺します。
再び政治は混乱しますが、玄宗がこれを鎮圧しました。
玄宗(げんそう)は外部に対して軍事力を強化し、政治も安定、このころの政治を「開元の治(かいげんのち)」と言います。
しかし、玄宗は世界三大悪女の1人と言われる楊貴妃(ようきひ)を溺愛します。
そして、楊貴妃の一族が独裁してしまう事態を作ってしまいました。
これに対し辺境警備をしていた安禄山(あんろくざん)らが反乱を起こしますが、これは失敗します(安史の乱)。
そして唐は一時盛り返しますが、続く農民を指導して起きた黄巣の乱(こうそうのらん)により唐は崩壊します。
この後、唐の衰退を感じた日本は遣唐使を廃止しています。
黄巣の乱の幹部の1人であった朱全忠(しゅぜんちゅう)が唐に裏切ったことにより、黄巣の乱は鎮圧されました。
その朱全忠が後梁(こうりょう)という国を建て、唐は滅亡することになります。
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