カテゴリー: 知っておきたい中国史
宋とはー歴史で中学生が知っておきたい中国史
宋
そう
趙匡胤
日本:平安~鎌倉
教科書では、唐が滅んだ後、小国に分かれ宋(北宋)が中国を統一したとあります。
小国に分かれた時代は、五代十国時代と呼ばれ、5つの王朝と10個の国が誕生しては消えるという状況を繰り返しました。
この状況をまとめたのが宋を作った趙匡胤(ちょうきょういん)で、中国統一は2代目太宗のときになされます。
宋はそれまでの軍事力中心の国から、学力中心の国へと転換を図りました。
教科書には地図で紹介されていますが、このころ中国北方には、遼(契丹)、西夏、金という国が現れます。
宋はこれらの国に対しても軍事力は用いず、贈り物などを送ることによってその関係を保ってきました。
しかしその結果、宋はお金に苦しむことになり、その状況を改善するため、王安石(おうあんせき)が改革を行います。
しかし、改革賛成派と反対派が対立してしまい政治は混乱してしまいます。
さらにそのときの皇帝である徽宗(きそう)が、趣味に没頭します。
政治を行わない上に、趣味にお金を使ったことから、さらに財政は悪化してしまいます。
このとき反乱を起こした集団の一つに、宋江(そうこう)率いる梁山泊(りょうざんぱく)があります。
これが後に『三国志』と共に日本でも人気のある、『水滸伝』の物語のベースになっています。
その混乱の中、北方の国の金が宋を攻めます。
そして北半分を金とし、徽宗を初めとする皇族は北方に連行、宋は滅びます。
しかし皇族の一人高宗が南に逃げて宋を再興、これを南宋(なんそう)と呼びます。
金や南宋の時代は中学の教科書には出てきません。南宋では金と戦おうとする人たちとそうでない人たちが激しく争います。
結果、南宋は秦檜(しんかい)と言う人物を中心にして和平の道を歩みます。
金と戦おうとした人の中心人物の岳飛(がくひ)は、中国の英雄として非常に人気があります。ドラマにもなっています。
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元とはー歴史で中学生が知っておきたい中国史
2017年11月4日
社会, 知っておきたい中国史
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w.sanbongi
元
げん
フビライ・ハン
日本:鎌倉~南北朝
元はモンゴル帝国の中国風の名前です。
モンゴル帝国を建国したチンギス・ハンの孫で、第5代フビライ・ハンが中国を支配した際に元と定められました。
モンゴル帝国がユーラシア大陸にまたがる大帝国で、元寇など日本にも関係する国なので、教科書の記述も多いです。
元の皇帝=モンゴル帝国の皇帝ですが、フビライは兄弟と争い皇帝になっており、このときモンゴル帝国では内乱続きでした。
この状況はフビライ死後も続き、モンゴル帝国の皇帝としての力は弱まります。
モンゴル帝国は元をはじめとする、いくつかのチンギス・ハンの血族が統治する国の連合国のような形になりました。
よって元とはフビライの子孫が皇帝となり、その統治が及ぶ範囲を指します。
モンゴル帝国はもともと遊牧民の国ですが、フビライは中国風の統治へ転換(てんかん)をはかっています。
統治の原則は、モンゴル人第一主義で、序列を4段階に分け、上位の官職はモンゴル人が独占しました。
ベトナム、ミャンマー、タイ、朝鮮、そして日本と領土を広げようとしました。
しかし、日本遠征(元寇・文永・弘安の役)を初めいくつかは失敗に終わっています。
フビライ死後、元の国力は弱まります。
ただシルクロード交易により、元の首都・大都(だいと・今の北京)はその中継地点として栄えました。
マルコ・ポーロにより日本が「黄金の国ジパング」として伝えられたのも、この時期です。
そののち、後継者争いがおき政治は混乱しました。
さらにモンゴル人の支配をよく思わない、白蓮教徒が主導となり反乱をおこします(紅巾の乱・こうきんのらん)。
そのリーダーの朱元璋(しゅげんしょう)が首都を落とし、その時の元の皇帝はもとのモンゴル高原へと引き上げます。
正確にいうと滅んだわけではありませんが、ここまでを元とし、これ以降の元は北元と呼びます。
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