太宰府・多賀城とはー歴史で中学生が太字ではないけど知っておきたい用語


大宰府

大宰府・多賀城

 

だざいふ

たがじょう

奈良時代

 

教科書では、現在の福岡県に大宰府(だざいふ)、宮城県に多賀城(たがじょう)を置いたとあります。

 

それぞれ、九州地方と東北地方の政治や外交・防衛、軍事に当たりました。

つまり奈良時代の日本は、平城京を中心として、南は大宰府、北は多賀城を置いて支配していました。

 

大宰府は、9つの国と3つの島の支配を任されていたことから、「遠の朝廷(とおのみかど)」と呼ばれました。

大宰府の管理下には、防人司(さきもりのつかさ)があり、防人を統括していました。

中国王朝や、朝鮮半島との外交の面でも大切な場所で、海外使節を接待する迎賓館も存在しました。

長官は大宰帥(だざいのそち)といい、主に親王がその職についていました。

ただ実際には、赴任しないケースがほとんどだったようで、実際には大宰権帥(だざいのごんのそち)が仕切っていました。

大宰府といえば、遣唐使の停止を訴えた菅原道真が有名です。

それは道真が大宰府に左遷され、そこで亡くなったからです。

道真はその活躍をよく思わない藤原時平らに仕組まれ左遷、その祟りを恐れた朝廷が神としてまつったことが始まりです。

2015年には、日本遺産に認定されています。

 

多賀城は、蝦夷経営の根拠地として大野東人(おおのあずまひと)が設置しました。

鎮守府(ちんじゅふ)と、国府(こくふ)の両機能を持っていました。

坂上田村麻呂の蝦夷討伐のさい、鎮守府は胆沢城(いざわじょう)に移され、国府のみになりました。

城とついていますが、一般的にイメージされるような天守閣のある日本の城ではなく、塀や堀で囲まれたものです。

1970年代に多賀城跡で、漆紙文書(うるしがみもんじょ)が初めて、発見されました。

漆紙文書とは、うるしが紙にしみこんで固まったことで、腐らずに残った古代の文書のことです。

 

 

※教科書とは東京書籍の「新しい社会 歴史」になります。

 

 

奈良時代-歴史で中学生が太字ではないけど知っておきたい語句

 

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プロフィール

管理者:DN

愛知県豊橋市三本木町の某個別指導塾・塾長です。

愛知県田原市生まれ、豊橋市育ち。

文学部史学科卒のため、歴史ネタが多くなります。

主に小中学生に指導もしています。

東三河の方で、教室に興味のある方はこちらのお問い合わせフォームより、お問い合わせください。塾ではない形で指導を希望される方も、一度ご相談ください。あなたから新しい指導の形が見つかるかもしれません。

 

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